これは、元明天皇が旧都となった藤原の地を出発し、新都・平城京に向かう途中で、乗っていた輿を止めて故郷を振り返ったときの心境を詠んだとされています。自分が生まれ育ち生活をした明日香の地を後にする、複雑な思いが読み取れる歌です。
このように、天皇が代わるごとに、平城京から長岡京へ、そして平安京へと、都は移転していきました。また、当時は天皇とともに天皇が住んでいた宮や政治を執り行っていた建物群をはじめ、都の機能もごっそりと移していました。そのため、平城宮の跡地はぽっかりと穴があいてしまったのです。今でも、奈良の人は自嘲気味にこう言うことがあるんです。「奈良には、何も残っていませんよ。みんな、京都に持ってゆきましたから」と。
ただし、奈良の市民は同時に、この巨大な空洞を守ろうともしてきました。その始まりは、幕末。何の建造物も残っていない平城宮跡の、保存運動が始まったのです。これは、かつての都の中心地を保存したい、という奈良の人々の熱い思いに端を発したものでした。
以降、今日に至るまで、商業施設や鉄道や道路の建設計画が持ち上がるたびに、市民は議論し、この空洞を残してきたわけです。
市民が決断しさえすれば、平城宮跡にビルを建てることだってできます。商業施設を増やせば、そのぶん経済効果も期待できる。ところが、平城宮跡を潰したら奈良はアイデンティティを失ってしまいます。だから、苦渋の決断で街の発展を諦めるわけです。文化財とともに生きていくという街の苦しさと言えるでしょう。
自然と文化財を生かした街づくり
これを悲観する人もいるでしょうが、私はむしろ、この空洞こそが奈良の市民の誇りであり、これからの街づくりに欠かせない重要な要素だと考えています。なぜなら、21世紀においては、大都市を除いてすべての街は、自然と文化財を生かした街づくりになっていくからです。現に、日本のほとんどの街はその方向にシフトしています。
そういった視点でもう1度奈良の街を見つめ直してみると、史跡や歴史的遺産がたくさんあるうえに、駅から東に10分も歩けば奈良公園の鹿が歩いている。さらに10分歩けば、春日山の原始林を見ることができます。その意味では、奈良は、日本の先端。これからの街づくりを考えるヒントがたくさんある街なのです。
日本のほとんどの都市は、こうした、自然と文化財を生かした街づくりにもうシフトしてきています。世界一速い鉄道、世界一高性能の機械、世界一のシェア、など、世界一を目指そうというアイデンティティは、今も当然あります。ところが、その価値観のなかでは、多くの都市や人間は、0.01%の成功者と、99.99%の敗北者に分かれることになってしまいます。それでは世の中そのものがうまくいくはずがありません。