小早川秀秋は、裏切り者にあらず

――三成は負けた西軍の大将(総大将は毛利輝元)。秀秋は東軍の徳川側に残ったものの、若くして病没しています。どうしても徳川の磐石な体制と比較してしまう。ご子孫には、生きづらいところがあったのではないですか。

【石田】三成は敗軍の将ですから、たしかにつらい部分はあります。歴史は勝者の側から語られるのが常なので、「三成は悪」と断じられてしまう。しかし、子孫たちの苦労というのは、それほどでもなかったらしい。いい大名に拾われて、それほどプレッシャーを受けていなかったようです。

関ヶ原合戦の勝者、徳川家康。歴史とは勝者の側から語られるものだが真実はいかに。

――家康に弓を引いた男なのに?

【石田】さきほど小早川さんが言ったように、その家康の差配のおかげです。実は三成のことを家康がもっとも評価していた。三成のような家臣がいれば、徳川幕府はさらに磐石になると言っていますしね。

【小早川】小早川家の場合、明治になって再興されましたが、毛利一族という思いが強く、生きにくさを感じたということは聞いていません。私もそう。ただ、秀秋は若くして亡くなっているから、なにも反論ができなかったのでは、という悔しさはあります。

【石田】わかりますよ。多くは関ヶ原について、さっと教わるだけですから、「秀秋の寝返りで西軍が負けた」と覚えるだけ。資料や書籍をじっくり読めば、単純な話じゃない。そもそも秀秋は東軍だったという説も有力です。

――西軍には敗者の哀愁が漂いますよね。勝敗の要因が秀秋の行動にあったと。内応、寝返り、という言葉ばかりがクローズアップされます。

【小早川】秀秋勢が西軍を攻めたことで雌雄が決したことは事実ですから、そう言われるのは仕方がないのかもしれませんが。

【石田】秀秋は立派な武将でした。早く小早川さんにお会いしてそれを伝えたかった。いつまでも裏切ったと言われ続けるのはかわいそうです。裏切りではないんですよ。秀秋は北政所(秀吉の正室)に育てられた。家康は北政所と昵懇。小早川勢が松尾山に陣取った時点で、秀秋は東軍と見るのが妥当です。そういった意味では、三成は少し鈍感でした。「太閤様に世話になったのだから、秀秋は当然西軍だ」と思っていたフシがある。

【小早川】秀秋が西軍を攻めるタイミングが絶妙すぎて、天下を分けてしまった。合戦の佳境で煮え切らずに迷っていたイメージも強いようですけど、私としては明確な意思があったようにも思えます。