ただ、社長が1人で張り切っても、社員がついてこなければ意味がない。

「目標を掲げて、社員を振り向かせるための努力を5年以上続けて、ようやく特許第1号製品が出ました」藤井社長はそう振り返る。

「受け身の受注生産でやってきた社員たちが、すぐに開発提案型に変われるはずがありません。だから私は、営業に回って帰ってくると、夕方から前職と同じく毎日のように社内で実験を行ったのです。実験は根気が要りますが、成果が出るととても楽しいんですよ。その過程を見せる。社員へのパフォーマンスでした」

社長も社員も開発仲間、手柄を独り占めしない

当時の藤井社長を突き動かしていたのは、「技術を持っているのだから、単なる加工屋で終わりたくない」という熱い思いだった。本社工場を創業の地、東京・目黒から大田区の工業団地に移した1986年に、設備を強化して覚悟を決めた。

「そんな私を見て、皆最初は引いていました。しかし、悪戦苦闘する私を遠目で見ていた社員の中から、『これ、使ってみて』と、ぴったり合うバルブセットの一部品を持ってくる者が出てきた。弊社にいる人間は職人軍団。本当は一人一人がアイデアを持っていますから、モタモタしている私を見ていられなくなったんでしょう(笑)。いつの間にか、私が設計したものをバラして、意図する効果が得られそうな部品をつくってくれていたんです。うれしくて、目がウルウルした瞬間でしたね。それが糸を引かない素晴らしいバルブの完成につながりました。弊社の特許第1号。94年でした」

とはいえ、藤井社長は特許を社員と共同名義にし、手柄は独り占めしない。自分も社員も開発仲間というスタンスを可視化することで、職人肌の社員たちの開発志向とポテンシャルを引き出すのだ。以来、多くの特許製品を生み出してきた。

「特許を取得すると皆の意識がガラリと変わり、開発志向が高まりました。『社長、次は何をやるのか?』と尋ねるようになった社員に『いや、ノーアイデアだよ』と。私1人では、特許に結びつくアイデアなんて簡単には出てきません」

さらに専任の設計者も雇い、研究・開発に参加する者が増えてきた。

「職人軍団って、『やれ』と言われたら動かないんですよ。自ら動きたいと思わない限りテコでも動かない。だけど、“次に特許を取るのは自分”という目標ができたら強いですよ」

藤井社長の表情は誇らしげだ。