どうやってその結論に至ったのか

このアナクシマンドロスのようなケース、すなわち「プロセスからの学びは大きいけれども、アウトプットからの学びは貧弱」という哲学者はたくさんいて、例えばデカルトもその典型例と言っていいと思います。

デカルトが「我(われ)思う、ゆえに我あり」という言葉を残したことは非常によく知られていますね。これはつまり「どんなに確からしさを疑ったところで、今ここに思考している自分自身の精神があるということだけは、否定できない」という意味ですが、現代社会で普通に市民生活を送っている私たちが唐突にこんなことを言われても、ほとんどの人は「ええ、まあそれはそうでしょうね」といった反応をするしかないでしょう。これは要するに、デカルトの考察もまた「アウトプットからの学び」ということについては、それほど豊かなものは得られない、ということです。

しかし、「プロセスからの学び」ということについては、アナクシマンドロスと同様にその限りではない。つまり、そこには豊かな学びがあるわけです。評論の神様と言われた小林秀雄は、デカルトの『方法序説』について「これはデカルトの自伝である」と言い切っています。自伝、つまり「私はこのようにして疑い、考えてきた」という、「考察の歴史」を記したものだ、と言うんですね。これは本当にシャープな指摘で、私たちは、デカルトがどのように悩み、考えながら、最終的に「我思う、ゆえに我あり」という結論に至ったかを知ることで、初めてデカルトの「哲学」を学ぶことになるわけです。

定番教科書はアウトプットにしか触れない

しかし、ではその考察の過程を初学者向けの教科書が紹介しているかというと、全くそうではない。程度の問題はあるにせよ、ほとんどの定番教科書は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という、有名なアウトプットを紹介し、ごく簡単にこのアウトプットがいかにすごいかということについて書いているのですが、厳しい言い方をすれば、これは一種のウチワ受けでしかありません。

ここにも初学者がつまずいてしまう大きな要因があります。高名な哲学の先生から、「ここは非常に重要」と言われても、その重要さがさっぱりわからないということになると、これはどうしても「自分には向いていないな」ということになってしまう。学問を続けるのに絶対に必要な「知的興味」が喚起できないんですね。