まずは月収30万円を目指す

【田原】このときはどんな仕事を?

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【青木】いわゆる失業対策事業なので、応募してくるのは年配の方ばかり。ケガをさせられないので、誰でも簡単にできる作業しかやらせてもらえませんでした。具体的には、鋤簾(じょれん)という道具を使って林道の砂利を均す作業。正直、まったくおもしろくなかったです。

【田原】この事業は半年間の期間限定。次はどうしたのですか?

【青木】おかげさまで檜原村の森林組合の現場作業員になることができました。でも、待遇はよくなくて、日給9000円。緊急雇用対策事業の時代と同じ額です。

【田原】日給制なんだ?

【青木】生活は厳しかったですね。私がいた作業班は、班長が50代で、ほかのメンバーは60代。年金をもらっているので無理して働く必要はなく、少しでも雨が降ると「今日は休みにしよう」となる。私は独身だったのでやっていけました。でも、新たに入ってきた仲間たちには奥さんや子どもがいて、本当に大変そうでした。このままでは続かないと思って森林組合に待遇改善の交渉もしましたが、うまくいきませんでした。

【田原】どうして失敗したのですか?

【青木】多摩の6市町村にそれぞれあった森林組合が広域合併をして、1つになりました。その結果、森林組合内に作業班が一気に増えた。檜原村の私たちの班だけ待遇改善するわけにはいかないという話になりまして……。

【田原】でも、それが結局、独立の契機になったとか。どういうこと?

【青木】広域合併で森林組合にコスト削減の必要が生じて、作業の一部をどこかに外注できないかという話が持ち上がりました。それなら私たちが外に出て仕事を受けますよと、若手の仲間4人で会社をつくって森林組合の下請けを始めました。それが東京チェンソーズです。

【田原】さっきもいいましたが、林業は衰退産業。独立してやっていける目算はあったの?

【青木】雨が降ろうが何が降ろうが、自分たちのペースでしっかりと動いていけば、少なくともいまよりよくなるという計算はありました。

【田原】実際、収入は増えましたか。

【青木】会社を設立するときにみんなで決めたのが、月給制にして、社会保険をつけて、退職金も積み立てること。給料の目標額は月30万円。そこから逆算して、森林組合から下請けで仕事を受けていました。

【田原】森林組合からの下請け仕事って、どんな内容ですか。

【青木】森林組合は個人の山主さんの山の手入れを行います。具体的には間伐ですね。それを私たちが外部業者として受託していました。