科学技術と資本主義の「卑しさ」を指摘

驚くほど大きな声で、太陽の塔再生プロジェクトを指揮していた。高さ50メートルもの細長い生命の樹に組まれた足場の上で。太陽の塔の真下に作られたプレハブの会議室で。恐竜やマンモスなどの造形を製作する工房で。平野暁臣さんには明らかに、岡本太郎が乗り移っている。太郎の死後あとを引き継いだおばの敏子さんも乗り移っている。一子相伝ではないが、ふたりの美意識や感覚、あるいは正義感が自然にわかると、自ら語る。

岡本太郎は、日本人として最初に縄文・火焔土器の美しさに気づき、その生きる力強さ、精神性の高さを訴えた。その太郎の訴えが、考古学の研究資料を「国宝」に押し上げた。弥生以降の実用性・効率優先の「面白みに欠ける」時代よりも、八百万の神が宿る時代の方が「高い」とし、科学技術と資本主義、西洋文明に盲目的に隷従して「豊かさ」を手にしようとする「卑しさ」を指摘した。

それは、マネー資本主義のむなしさに気づき、バーチャルではなく現実の生々しさがあってはじめて持続可能で、自然の中に神々を見ながら「おいしいものを原価ゼロ円で食べよう」とする里山資本主義を掲げてきた私にとって、実に共感できる考え方だった。

忖度のような「いやったらしい世界」の対極にある

このとてつもないピッグプロジェクトを指揮する平野さんは、東京から大阪にくるたび、ものすごい数の判断を迫られる。マンモスの毛の色から、塔の上部・ホリゾントの板の厚み、太郎オリジナルの「地底の太陽」の顔の優美で複雑な線。塔内の独特な空間のどこに配置されるか、観客はどこからどう見ることになるかを頭の中で思いめぐらせ、空間を思い浮かべて幾つかの選択肢から正解を見つける。とてつもない重圧がかかりそうなものだが、いつも楽しそうにしている。

塔内のオブジェ「生命の樹」で展示されている恐竜の模型。『蘇る太陽の塔~“閉塞する日本人”へのメッセージ』より

太陽の塔の再生だけでも大変だろうに、同時並行で「万博の歴史」に関する本も執筆している。自分でヨーロッパの古書店をまわって集めた「19世紀・20世紀の資本主義プロパガンダ装置」の貴重な写真などを集めて秘蔵コレクションとし、激務の合間に眺めているうちに文章が沸いて出てくるらしい。恐るべき仕事量、そして仕事の質。まさにスーパーマン。

なぜそんなことが可能なのか。シンプルなのだ。大切なことの優先順位がはっきりしている。命や生命力を一番に掲げる「縄文」の価値を、とことん追求していく。みみっちい利害や、陰湿なこびへつらい、今はやりの「忖度」……。そういう「いやったらしい世界」の対極にある、からっと明るい世界。それを平野さんは体得している。

リーダーのぶれない姿勢は、メンバーたちを変えていく。みるみる目を輝かせていく。チャンスを与えられた若い世代が動き出す。言われた通りではなく、少しでもよくするためにアイデアを出す。大きな明るい声で発言し、仲間とさらに知恵を重ね、洗練させていく。

それはあたかも半世紀前、日本人が最も元気だった「万博の時代」の空気に極めて似たものになっていく。本来予算を管理して支出を減らすのが仕事である大阪府の担当者が、今やらなければ永遠に悔しさを残すからと言い出して100枚に及ぶ「怪物の内臓のひだ=拡散板」を塗りなおせないかと、最後の最後まで粘る、などということまで起きた。

万博の時代にあって今の時代にないもの

万博の時代にあって今の時代にないものとは、なんだろう。その第一は、若い世代に無条件で任せ、新しいことを自由にやらせて常識の壁を突き破り、そして最後は褒めてかつ責任をとる。そういう潔い「大人の男気」。あるいは、月の石やアポロ宇宙船が現実味を帯びた形で少年たちに迫る月移住の夢、ウルトラセブンではかなえられている携帯電話や、服を着た人間をそのまま洗える人間洗濯機がもたらす未来の輝きを、みんなが信じて突っ走るキラキラした躍動感。それらが今はむなしい。月に行ってもうさぎが餅をついていないばかりか、空気もなく重力もなく、わが日本では当たり前のそのまま飲める水が流れる川など、とうの昔になくなった。

では火星まで行けば、道は開けるか。米テスラのイーロン・マスクCEOは、スペースX社を設立し、火星移住を目指している。だがいまの技術では、火星に着いても、帰ってくることさえできない。映画のように都合よくはいかないのだ。