「右か左」ではなく「クレイジーか非クレイジー」
ヒースによれば、もはやアメリカの政治文化は「右か左か」ではなく、「クレイジーか非クレイジーか」に分かれている。しかも、クレイジー派のほうが優勢になっている、という。
<政治家はついに気づいてしまった。ひたすら同じことをくり返していけば、それが真実であろうとなかろうと、大衆は信じるようになるのだ、と。そして民主政治においては、多数者の信じることのほうが事実よりはるかに重要だ。そのため多くの政治家は、真実を語るふりをすることすらやめてしまった>
もはや真実や事実など、どうでもいい。大衆ウケのいいことを繰り返すことが重要だ。こうしたポスト・トゥルース的な態度は、アメリカ民主党よりも、保守派の共和党と親和性が高い、というのがヒースの診断だ。その違いは、保守派が、計画や政策よりも、勘(gut feeling)、直感、感情に訴えかけることを優先している点にある。
保守派が直感や感情に訴えかけているという診断じたいは、前回紹介したジョナサン・ハイトの議論と大きく違っていない。ハイトもまた、直感や感情を「象」に、理性を「乗り手」にたとえて、保守的な共和党のほうが「象」に直接訴えかけていることに成功していると述べていた。
だが、ハイトとヒースでは「理性」に対する評価が大きく異なるのだ。
理性を軽視してはならない
直観主義者のハイトは、理性の崇拝は「合理主義者の妄想」だと一刀両断し、「真実の追求を是とする人は、理性崇拝をやめるべきだ」とまで言い放っている。しょせん理性は、感情の下僕にすぎない。つまり、理性にいくら働きかけたところで、直感や感情をコントロールすることはできない、というわけだ。
それに対してヒースは、次のように反論している。
<私たちが現在生きている世界は不自然なうえに高度に非直感的なものだ。この社会の三つの主要な制度的特徴――市場、代表制民主主義、人権――は、どれも採用されたときにはまったくクレイジーだと、人間性に絶対に反している(そのため人類史上ほぼずっと拒まれてきた)と思われていた。長期間の根強い論理的思考、議論、実験の過程を経てようやく、これらは試され、成功することが示されたのだ>
ヒースも、感情や直感が理性よりも優位であることは承知している。しかし、だからといって、理性を軽視していいことにはならない。むしろ進化的には優位だった感情や直感に反する理性的な思考を積み重ねることによって、私たちはいまの生活を享受できるようになった。ゆえに「本能の優位を取り戻すように提唱することは、この偉大な達成を取り消そうとする試みだ」と、ハイトを強く批判するのだ。