一般誌にヘアが載る時代がやってきた

私が入社した70年代は、外国のSEXY小説を翻訳して掲載するときでも、言葉を一つひとつ選びながら、危ない言葉はいい換えたりするなど、それは神経を使ったものだった。古くは『チャタレイ夫人の恋人』(伊藤整訳)がわいせつ文書に指定され発禁処分になった。

私が入って2年目の72年にも、『面白半分』の編集長をしていた野坂昭如が、永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を掲載して、わいせつ文書販売の罪に当たるとされて野坂と同誌の社長が起訴されている(最高裁でも有罪判決)。

わいせつ表現の自由を広げる闘いは主に出版社が担ってきたが、一歩前進二歩後退、遅々として進まなかった。

『週刊現代』(以下現代)のような一般誌にヘアが載ることなど、夢想だにしなかった。わいせつの判断基準は今も昔も変わらないが、世界の潮流が、日本にも変化をするよう促していたに違いない。

「ヘアー付きヌード」を「ヘア・ヌード」に短縮

荻野目、マドンナで成功した私は、映画『遠雷』で大胆なヌードを披露して、一躍アイドルとなっていた石田えりの写真集を作りたいという編集部員の企画を通した。

写真家は当時カリスマ的な人気があったヘルムート・ニュートン。撮影場所はニュートンが住むモンテカルロではなかったか。制作費用は1億円ほどだったと記憶している。写真集がフライデーから出版された93年3月には、私は現代編集長に異動していたが、30万部の大ベストセラーになった。

だが、マドンナは例外として、ヘアを週刊誌のグラビアに載せることは、まだタブーだった。仕方なく、それまでは「小柳ルミ子の衝撃、ヘアー付きヌード」などと思わせぶりなタイトルを打って、読者の購買欲を刺激していた。

ヘアー付きというのは長すぎる。ひと言でいい表せないだろうか。ない知恵を絞った。そこで思いついたのがヘア・ヌードだった。中丸は「付き」を表している。当時は既にヘアーではなくヘアサロンのようないい方が主流になってきていた。

初めてグラビアにこの言葉を使ったのは、93年5月1日号の杉本彩のカラーグラビアで、「新ヘア・ヌードの女王」と表紙にもうたっている。当時は、現代を買ってグラビアを見ても、ヘアなど出ていない。読者から多くの苦情の電話が来た。