載せていないのに、言葉が独り歩きしていった

だが、面白いもので、言葉が独り歩きしていったのだ。各誌がヘア・ヌードという言葉を使い始め、中には、ヘアが写っているグラビアを載せるところも出てきたのである。

一誌がやって桜田門からおとがめがないとわかると、他誌もやりはじめる。『週刊文春』や『週刊新潮』を除くと、現代はヘアを出すことに一番慎重だったが、命名者として知られていたこともあってか、部数は好調に推移していた。

そこでひと工夫した。前半のグラビア全部を使って硬派なフォト・ドキュメンタリーをやり、後半にソフトなヘア・ヌードを載せる。硬と軟で中和するという発想である。

時代の変化というのは、川がいったん堰(せき)が切れると奔流となってあふれるように、すごいスピードで人々の意識を変え、世の中を変えていくものだ。ヘア・ヌードが、あれほど強固だったわいせつ表現規制の壁を少しずつ崩し、週刊誌のグラビアに普通に載るようになっていった。

川島なお美、島田陽子、西川峰子などの大物が次々にヘア・ヌード写真集を出し、「ヘアの商人」なる人間まで排出するようになった。ヘア・ヌード効果もあって部数は伸び、ポストと首位争いをするまでになった。

大新聞が「良識」を大義名分に批判

だが、好事魔多し。朝日新聞をはじめとする大新聞が「良識」を大義名分にヘア・ヌード批判をしてきたのだ。

「ヘア・ヌードの野放し状態は子供の教育上問題がある」という批判は世の賛同を受けやすい。そのうち、批判は航空会社にも向けられ、機内でヘア・ヌードグラビアを広げられたら女性客に迷惑だ、機内誌から現代、ポストを外せという動きになっていった。

結果、すべての航空機の機内誌から外されてしまった。切られた部数は8000部あまり。面白いことに、機内で読めないとわかると、飛行場の売店で現代とポストが売れるようになった。

しかし、私はフライデーのたけし事件(86年12月9日、ビートたけしをはじめ、たけし軍団ら12名がフライデー編集部を襲撃した)を思い出していた。それをきっかけに、写真誌批判が新聞を中心に広がり、200万部近くあった部数が3分の1程度にまで落ち込んでしまった。

対応を間違えると、せっかく先輩たちが苦労して闘い、ここまで来た性表現の自由が、後退してしまうことにならないか。