味平とカレーの時代

大衆料理をテーマにした“味平”に登場するなかで、もっとも印象的なメニューと言えば「カレー」である。連載の後半に登場する「ブラックカレー」とその考案者である「鼻田香作」が作品全体でも大きな存在感を放っているが、1973(昭和48)年の連載開始当初からカレーはキーアイテムとして登場している。

戦後から高度成長期は日本のカレー文化が大きく発展した時代だった。実はそれ以前の明治後期から大正、昭和初期にかけて、すでにカレーは一般の家庭に浸透していた。だが戦争がそこに暗い影を落とす。日中戦争開戦後の1938(昭和13)年には国家総動員法による経済・食料統制が行われた。1941(昭和16)年に始まった第2次大戦の戦禍が東南アジアへと拡大するとスパイス産業も大きなダメージを受けた。スパイスの生産・流通量も激減し、カレー粉の製造・販売は軍用食向けを除いて途絶えることになる。

もっとも戦後、カレーの復活劇はめざましかった。終戦を迎えた1945(昭和20)年には早くも愛知県の食料品卸が「オリエンタルカレー」を売り出した。1949(昭和24)年にハウス食品が「即席ハウスカレー」を8年ぶりに製造再開。1950(昭和25)年には、エスビー食品から現在でもおなじみの赤い缶に詰めたカレー粉がお目見えし、同年には、ベル食品も固形の「ベルカレールウ」を発売した。粉だけでなく、家庭に使い勝手のいい固形のカレーが普及していく。

そうした家庭用カレーがブームとして爆発したのは1960年代だ。1960(昭和35)年から固形のルウタイプのカレーが各社から次々に発売される。1960(昭和35)年発売のハウス「印度カレー」、グリコ「ワンタッチカレー」がブームに火をつけ、1963(昭和38)年にはハウス「バーモントカレー」、1966(昭和41)年にはエスビー「ゴールデンカレー」、1968(昭和43)年にはハウス「ジャワカレー」と、現代でもなお人気のカレールウが次々と発売された。そして1969(昭和44)年、大塚食品工業が初のレトルトカレーである「ボンカレー」を発売する。

家庭だけではない。外食産業でカレー人気に火がついたのも1960年代から地続きとなる昭和40年代だ。1968(昭和43)年、京王線新宿駅前の名物店「カレーショップC&C」がオープン。1973(昭和47)年には銀座に「カレーの王様」の1号店が開店した。さらには、1903(明治36)年創業の洋食の老舗、日比谷・松本楼が当時の安保闘争のとばっちりで(投げられた火炎瓶によって)1971(昭和46)年、建物が焼失。本格的な再建がなされたのも1973年のことだった(ちなみにそれ以降、同店では再建周年記念メニューとして、毎年9月25日に「10円カレー」を先着順に提供していた)。

『包丁人味平』にカレーが登場するのも1973(昭和43)年、連載第3回の「見習いはつらいヨ」だった。店にやってきた肉体労働者風の2人組の客が「何だっ! この店のカレーはっ」「こんなまずいカレーじゃ犬もくわねえぜ」と因縁をつける。挑発に乗って怒る味平。結果、チーフコックの北村は2人にそれぞれ1万円分の料理をつくり、まずければ逆にそれぞれ1万円ずつ、計2万円(現代の5万円相当)を支払うという約束をしてしまう。

しかし、北村は2人の風体から職業と味の好みを見抜き、味つけを少し変えただけのカレーを提供。不満そうな2人に「うめえっ!」と言わせることに成功する。

『包丁人味平』1巻より。ガラの悪い客も思わず「うめえっ!」と言ってしまい、大慌て。

「すごい! ここのコックさんは名人だあ!」と、客席も厨房も一体となった店内からやんやの喝采を受ける北村。こうべを垂れる2人に「代金は定価の200円でけっこうです。おひきとりください」とトラブルをスマートに収束させる――。

この200円カレーは、現在の消費者物価指数で換算すると約500円となる。だが「キッチンブルドッグ」という洋食店は、スタッフの配置を見ても、とてもワンコインでランチが食べられる店ではない。レジにはオーナーがいて、厨房では「チーフ」「セカンド」「ストーブ前(オーブン)」など複数のシェフが働いている。チーフはオーナーシェフではないし、味平に加えて大卒の若手シェフもいる。ランチタイムには少なくとも2人のホールスタッフも雇っている。オーナーを含めると8人体勢だ。

『包丁人味平』1巻より。味平が働く「キッチンブルドック」は大繁盛店だ。