漁師は未来永劫幸福に暮らせるのか?
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね?」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの?」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」
▲以上、「生産性低下の逸話」ダイジェスト▲
前々回の原稿で、僕は、「非地位財」(他人が何を持っているかどうかとは関係なく、それ自体に価値があり喜びを得ることができるもの)に対してお金を配分していくことが不毛な競争的消費(浪費)に巻き込まれないことにつながる、と書きました。そして、それは結果的に資産形成への確かなステップともなると(参照:「他人の年収」をスルーできたら富裕層の素質あり http://president.jp/articles/-/20899)。
さらに、この非地位財、例えば「休暇、愛情、健康、自由、自主性、社会への帰属意識、良質な環境」といったものを追求するためには、案外、大きなお金はかからない、ということもお伝えしました(*ちなみに、他人との比較優位によってはじめて価値が生まれる「地位財」とは、所得、社会的地位、車、家などを指し、大きなコストがかかる)。
ならば、「そもそも富裕層になる必要はないのではないか?」と読者のあなたは考えられたかもしれません。
冒頭で述べたように、人間は遠い昔から、セックス、おしゃべり、食事、リラックスという素朴なごく少数の行動があれば、「十分に幸せ」になれます。これも、大してお金はかからないものです。
ならばやはり、そもそも富裕層になる必要などないのではないか?