「無条件幸福」が求められる時代
生活レベルの貧しい社会環境においては、比較・競争意識が、物理的な豊かさを手に入れる原動力になるのだと思います。でも、今の日本のようにこれだけ物があふれ成熟すると、比較や競争そのものに意識が振り回されてしまいます。もっと稼いで、もっとレベルアップして……。「社会的条件」に縛られるかぎり、競争相手が消えることはありません。そうなると、自分の主観的感覚である「幸福」を得るためには、比較や競争の意識から解放されることが必要になってきます。
所得やポジションなどの社会的な条件がそのまま生活の幸福度につながったような時代から、自分がどんな条件であってもその中から生きがいや存在意義を見いだし、ありのままの自分を肯定できる。そんな「無条件幸福」が求められる社会に変わってきたのかもしれません。
福井に限らず、地方のまちや田舎にくらす子どもたちは、ある程度「無条件」の社会に守られているように感じます。僕もそうでしたが、田舎のまちには都会のような小中学校受験などはほとんどありません。公立か私立といった選択もほとんどないし、受験のために放課後は塾でしのぎを削るというようなこともほとんどありません。同じ学区の子どもたちは、基本的にみんな同じ小中学校に通います。だから、そこで所属の階層意識を持つようなこともありません。いろんなやつがいて、勉強ができなくても、おもしろいことを言って人を笑わせたりできれば、人気者になれる。
もちろん高校受験くらいはあるし、いずれは序列が生まれます。しかし、このような「僕は僕でいいんだ」という自己肯定の意識は、中学生くらいまでの日常や体験によって基礎ができあがるんだと思います。さらに福井の場合には、無条件の自己肯定感や幸福感を育むと思われる地域特有の理由が見あたりました。
福井は地理的にも閉鎖的な雪国という土地柄、昔から内職なども含めて夫婦で仕事を分業しており、共働きが今でも一般的です。そして、今でも大家族が多く、祖父母と一緒の環境で育ちます。最近では、同じ敷地内に世帯ごとに別々の家をもつというケースも増えてきましたが、保育園や学校から帰ってきた子どもたちの面倒は、祖父母が見るということがほとんどです。
両親はどうしても、子どもの成績やテスト結果といった「条件」がある程度気になります。そして、子どもたちも親の顔をみて、成績や点数といった社会的条件が自分の価値に影響しているのだろうということをなんとなく感じ取ります。でも、家で出迎えるおじいちゃんおばあちゃんは「今日のテストはどうだった?」ということはほとんど聞きません。子どもが元気で健康で、ただ無事に帰ってきてくれればいい。ただそこに存在するだけで「満点」なんです。この祖父母の存在は、孫である子どもにとっての「無条件に自分を肯定してもらえる」という体験につながり、ありのままの自分の中から生きがいや幸せを見出すことができて、「無条件幸福」を育んでいるのではないかと思うのです。