生き残るために重要なもの以外、孫権は何でも捨てた

呉は多数の武将を派遣して魏の侵攻を食い止めようとしますが、呉の内紛もあり上手く対抗できませんでした。孫権は次のような手紙を曹丕に書いています。

「もし私めの罪がつぐないがたいもので、どうしてもお見のがしいただけぬのであれば、土地と人民とを奉還いたし、交州にあってこの生命を生きながらえ、余勢を過ごしたくお願い申し上げます」(書籍『正史三国志呉書I』「」

孫権は一国のトップにも関わらず、効果的ならここまで卑屈になってみせたのです。

しかし魏の文帝は、孫権の息子、孫登を魏の都へ送るならすぐに兵を撤退させようと回答します。魏も、孫権の臣従の態度を形だけだと疑っていたのです。

魏軍に侵略され、息子を人質に要求されて困った孫権は、なんと蜀に詫びを入れます。関羽を殺して劉備を撃退した相手に、友好関係を回復させるよう呼びかけたのです。

蜀の側も、呉に敗戦した直後にもし、呉が魏に急襲されてしまえば、あとは一つの強者と弱者の蜀が残されることになります。孫権の申し出を拒むわけにはいかなかったのです。

孫権は古い方針に頓着せず、状況に合わせて臨機応変に対応しました。

「身を屈して辱を忍び、才に任じ、計を尚び、勾践の奇英あり、人に傑れしものなり」(書籍『正史三国志群雄銘銘傳』)

まさに上記の言葉の通りです。

私たちは、ともすれば状況が変わっても自分の方針に固執することがあります。

大ケンカしたばかりの相手にこちらから詫びを入れるなど、誰でもやりたいことではありません。人間にはメンツもあれば、プライドもあるからです。

しかしここでプライドにこだわれば、国が破れるか息子が魏の人質です。プライドやメンツ、枝葉を捨てても実を取る孫権の決断がここでも光ります。もし孫権が頑固だけの人物ならば、223年に三国で一番早く滅亡したかもしれないのです。