政権奪取に必要な「選挙に強い組織」
【塩田】政権を奪えるトップリーダーの条件は。
【馬淵】明るくないと駄目(笑)。暗いのは、本当に嫌だな。
【塩田】民進党のリーダーは、「お神輿の担ぎ手」を避けて、自分がお神輿になりたいと思う人が圧倒的に多いように思います。突破力や創造力があり、健全な政治的野心を備えた有為な人材、できれば型破りの指導者をみんなで担ぐという手もあるのでは。
【馬淵】ありだと思いますよ、そういうやり方も。トップが外から来てもいいんです。プロフェッショナルとして瞬時に党を掌握できるくらいの経験知を持った人なら問題ない。民進党に欠けているのは、党の掌握です。企業だったら、あらゆることを全部、掌握したトップが会社を動かしていくのに、わが党は突然、代表になるパターンが多い。本来は、政策のみならず、国会対策、選挙対策など、支持基盤を強化する現場の経験を多数積まなければと思います。特に、全国の選挙区を掌握しないで代表になると、ただのシャッポで、言われたことを全部、鵜呑みする以外になくなってしまいがちです。みんながお膳立てして、人が集まったのを見て、自分に人気があると勘違いする。これでは駄目です。
外から来た小沢さんはプロとして党を掌握できる人だったんでしょう。全国のすべての選挙区が頭に入っていて、何をしたらいいか、どこを取りにいかなければいけないのか、それができた人ですよ。連合も県連組織も含め、全党を掌握し、候補者を探し出して選挙に立てる。本当に見事なくらいに全党を掌握した代表でした。だから強かった。
【塩田】馬淵さん自身は民進党で自分が果たすべき役割をどう位置づけていますか。
【馬淵】ものすごく手間がかかるけど、ありとあらゆる選挙対策実務をやり切ることだと思います。政党が、組織として目指すべきは、選挙結果による議員数の極大化です。政党にとって、企業でいえば売り上げに当たるのは、選挙による当選者数しかない。私が特命副幹事長として選挙に特化しているのは、それをやる人間が今、民進党には他にいないからだと思っています。
野党になってから幹事長代理、幹事長代行、選対委員長などを務め、維新の党との連携など、各党とのパイプづくりをやってきました。私自身、全国の地方組織や連合などの支持団体と強力なパイプを持ちました。政党が選挙をおざなりにしたら駄目です。他にやる人がいないのであれば、自分がやるしかいないという自負もあります。選挙に強い組織に生まれ変わらせないと、政権奪取はあり得ない。全力を尽くしたいと思っていますよ。
【塩田】民進党を旗揚げしましたが、国民の期待感も今一つで、寄り合い所帯の問題点が噴き出して、将来、空中分解するのでは、という懸念の声も聞こえてきます。
【馬淵】かつて分裂してしまいましたからね。その危険性はゼロではないけど、諦めずにやることでしょう。僕なんか、そういう声はまったく気にならない。どんな場面でも、とにかく全力でやる。何一つ無駄な仕事はありません。一つの仕事が来たときは、天命だと思って受けて全力でやっていくと、新たに何かが見えるんです。頭でっかちな人は、やる前から損だ得だとすぐ判断しようとするけど、まずやってみるべきだと思います。
【塩田】馬淵さんはなぜ政治家を。
【馬淵】企業の経営をやっていて、それはそれで面白かったけど、幼いときよりずっと父や母から「公に奉ずる」ことの尊さを教えられてきたので、自分の究極の喜びは企業経営や金儲けではないという気持ちがありました。父は陸軍士官学校出身で軍人を全うしようとしていましたし、母はドイツ文学者でした。そんな家庭に育って「公に奉ずる」という考えに立てば、究極は政治の世界だと、心の奥底にありました。
子供のときに憧れた田中角栄(元首相)が、自分の政治を志す原点だったのですが、ようやくこの世界にたどり着きました。この人のパワーと明るさが自分の目指すリーダー像でもあります。
【塩田】ここまでの人生で一番辛かったことは何ですか。
【馬淵】落選ですね。これはやっぱりきつかった。全人格が否定されたような気分でしたね。
【塩田】政治家として、これからの最大の達成目標は何ですか。
【馬淵】政権を再び担い、運営する。その先頭に立つ。
【塩田】政権を再奪取するまでに総選挙は何回くらい必要ですか。
【馬淵】最低、あと2回は必要です。3回かかるかもしれない。
民進党・筆頭特命副幹事長
1960(昭和35)年8月、奈良市生まれ(55歳)。東京都立上野高校、横浜国立大学工学部土木工学科を卒業。三井建設に入社。その後、2部上場のコンピューター関連企業で取締役、北米法人最高経営責任者などを務めた。2000年の総選挙に民主党公認で奈良1区から出馬したが、落選する。03年の総選挙で再挑戦し、43歳で初当選(現在、当選5回。小選挙区で5期連続当選)。民主党政権時代、鳩山由紀夫、菅直人の両内閣で国土交通副大臣、菅内閣で国交相兼内閣府特命担当相、首相補佐官を歴任した。2011年と12年の民主党代表選に出馬したが、いずれも敗退した。民主党の幹事長代理の後、野党転落後に選挙対策委員長となり、15年12月から現職。著書は『原発と政治のリアリズム』。1男5女の父で、かつては自身と夫人の両親4人を含め、12人の大家族が一緒に暮らし、「大変だけど、総和としての恵みの豊かさを大切にする」という生き方を実践した。