なぜ仏教には性欲に関する戒律が多いか?
自制心が保てるかどうかは、その人に忍耐力があるかどうかという個性の問題ではなく、頭の中で「外部の報酬」をどうイメージするかという認知的な問題(認知的再評価)だということが分かったのです。
ここで、「セックスしか頭にない」質問者の悩みに対して、2500年前に認知的再評価をした人の言葉についてお話したいと思います。前もって申し上げますが、僕は無宗教です。
その言葉を発したのは、釈迦です。『スッタニパータ』という経典でこう述べています。
「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という3人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫・中村元翻訳)
これは、バラモン(インドの最高位の僧侶)が釈迦に自分の娘を妻として受けていただきたいと頭を下げた際、釈迦がその依頼に対して語ったものといわれています。
仏教の世界には人間を「糞袋(九穴の糞袋)」とする言葉があります。曹洞宗の鈴木正三(1579-1655、江戸時代初期の僧侶)も、肉体を「九穴の臭い皮袋」と表現しています。
釈迦は、この欲望なり「糞袋」に対する執着なりについては、非常に多くの言葉を残しています。また、仏教には性欲を刺激する可能性のある行為に関して多数の戒律があります。
釈迦が「女人」をあえて「糞袋」と認識するのは、先のマシュマロの件で登場した「頭の中での外部の報酬」をどうイメージするかという認知的な問題を上手く処理した事例ではないかと僕は思います(注:念のためですが「糞袋」はあくまで釈迦などによる比喩であり、僕自身には女性に対する蔑視の気持ちはありません)。
質問者の悩みに沿って言えば、ある夜、お酒に酔ってキャバクラ店に行きたいと思ったときの防止策を考えておいてもいいかもしれません。例えば、こうです。
入った店のキャバクラ店のソファで女性が横にぴったりくっついて接客する。このとき、先ほどの仏教の考えのように女性をあえて「糞袋」または「臭い皮袋」と考える。そのことでホットな衝動を冷却し、店に入るのを回避する――。
また、そもそもそういった強い欲求や衝動が起こらないように「マシュマロを遠ざける(上の例で言えば、キャバクラ店のある界隈に足を踏み入れない、など)」という方法もあるかもしれません。
僕の場合には、家からの外出は不適切なトラブルが起こるリスクがあるため、極力控えています(仕事は自宅内でする)。そのため、「マシュマロ(欲望を刺激するもの)」を見ないですみますし、僕に接触してくる女性が仮にいたとしても(もし~だったらという「イフ」)、それはお金目当てのハニートラップだろうと考える(そうしたら~しようという「ゼン」)ようにしています(*イフ・ゼンプランに関しては、前回原稿参照ください。http://president.jp/articles/-/17608)。これは、既婚者である僕なりの自制心の働かせ方です。