経済至上主義へのアンチテーゼ

生まれはロンドン。父親は富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)の第3代社長。慶應義塾大学経済学部卒業後、名門米ペンシルバニア大学ウォートン校に留学し、MBAを取得。初めは父親の会社に入るが、合弁で設立されたばかりの富士ゼロックスへ1963年、30歳で移籍する。米国本社経営陣に「来ないか」と熱心に誘われ、「男冥利に尽きる」と応じたのだった。

以降、会長職を辞するまでの43年間は大きく3期に分けられる。最初は日本の高度成長と軌を一にする会社の急進期だ。富士ゼロックスは事務合理化の波に乗り、市場を席巻する。

この時期、「モーレツからビューティフルへ」のキャッチフレーズのもと、経済至上主義へのアンチテーゼとして、真の豊かさを訴えるキャンペーンを打ち、新進企業としてのメッセージを発した。その推進役を務めたのが当時37歳の青年取締役、小林さんだった。

73年のオイルショック後、一転、業績は急落。存亡の危機に直面すると、副社長だった小林さんは米国流の科学的なTQC(全社的品質管理)を導入。業務の標準化を徹底した。78年には45歳で社長に就任する。

ところが、業績が上向くにつれ、「TQCは軍隊みたいで嫌だ」との声が社内から聞かれ始める。80年代半ばからはTQCの形骸化が目立ち、日本企業の強さが讃えられた時代に富士ゼロックスは逆に沈滞する。

思い悩んだ小林さんは90年代に入ると、社員の個性を活かす経営へと舵を切り、「よい会社構想」を打ち出す。事業が「強い」だけでなく、社会に「やさしい」こと、社員にとって仕事や人生が「おもしろい」ことを重視する。その姿勢を前面に出し、ボランティア活動も評価対象とするなど、先進的な人事制度を次々採用した。