心臓外科医の賞味期限は年齢ではない
当然のことながら、私も目の衰えを実感して悩んだ時期があります。私が老眼に気づき始めたのは、42歳のときでした。私はもともと強度の近視でコンタクトレンズをつけて手術をしてきました。そこに老眼が重なり、年々、ものが見えにくくなってきたのです。手術中は見る角度を少し変えれば支障はなかったのですが、40代後半になると、他の病院で手術をしたときなどにライトの具合によって、手先が見えにくくなることがありました。そして、そのために、自分の手術の精度がほんの少し低下しているように思う瞬間がありました。
本当に零コンマ何ミリ以下ですが、ズレが生じたように感じたこともあります。患者さんに影響を及ぼすようなズレではありませんし、一緒に手術をしている助手や看護師さえも気づかないくらいほんの少しの変化でしたが、運針の速度などが低下するので自分自身をごまかすことはできません。私が得意とするオフポンプ手術は心臓を動かしたまま行う手術法で、動いている心臓の血管の表面にある直径2ミリほどの血管を縫う必要があります。もしも老眼が進んでミリ単位のズレが出たら患者さんに影響を及ぼすことになりかねません。
私の恩師の一人である心臓外科医が第一線から退いたのは乱視の進行が主な原因でした。技術の高い心臓外科医でしたが、手術のやり直しや出血が多くなって徐々に手術室から遠ざかっていきました。そのようになっても名声が直ちに落ち込むことはなく、手術を望む患者さんはその後も多かったのです。そういう例を見ていたこともあり、私としては、目の衰えだけでメスを置くわけにはいかないと思いました。肉体的、精神的には全くといっていいほど衰えを感じていませんでしたから、私の手術を待っている患者さんたちのためにも、視力の衰えを補う方法はないかと探し始めました。
そんなとき出合ったのが、遠近両用の多重焦点(多焦点)コンタクトレンズです。NHKの健康番組に出たときに、当時NHKのアナウンサーだった古谷和雄さんに教えてもらったのがきっかけでした。古谷さんも多重焦点コンタクトレンズを使っていて、とても使い心地がよいと話していました。その2日後に眼科へ行き、試してみたところ、元通りクリアにものが見え、中心視力が回復して周辺への移行もスムーズになりました。人によっては、多重焦点コンタクトレンズが合わない人もいるようですが、私にはピタッとはまったのです。老眼がこれ以上進んだらどうしようとの不安感は吹き飛び、これだけよく見えるのなら新しい手術を開発できるかもしれないと意欲まで湧いてきました。手術のときに使う拡大鏡など、機器の進歩のお陰もありますが、気力と体力に衰えがなければ、心臓外科医の賞味期限は年齢ではないと思います。