「危機」を覆い隠した北米事業の好調さ
それは最初、漠然とした懸念だった。
時を遡ること6年前、伊東は四輪事業本部の本部長を務めていた。
ホンダは他の日本メーカーの例にもれず北米で販売台数を伸ばしており、研究所での開発も需要の多い中型車に照準を合わせていた。収益力の高い北米専用のライトトラック、乗用車ではV6エンジンを積んだアコードやレジェンド。売り上げは順調に増加していた。
「だが――」と開発の現場で伊東は思うのだった。
「技術の仕込みがどうも北米に偏っている。我々が狙うべきコアのゾーンは、やはり大衆車であるはず。そこにもう少し目を向けるべきなのではないだろうか」
疑念は経営の場で取り立てて口にされるわけではなかったが、伊東の後を継いで四輪事業本部を任された野中俊彦やヴェゼルの開発責任者(LPL)・板井義春など、後に彼のもとで「改革」の中心人物となっていく技術者たちが共通して抱いていたものだった。
例えば、当時、北米でアコードを開発していた板井は、「ホンダのプレゼンスが少しずつ落ちていることを感じつつあった」と語る。
「確かにビジネスは好調なんです。だけど、5年、10年というスパンで見たとき、ホンダは危ないのではないか。車づくりから“ホンダらしさ”が失われつつあるのに、好調な売り上げがそれを覆い隠している気がしてならなかったんです」
同様に米国の研究所のトップだった野中は、さらに過激な表現で当時の雰囲気を表現している。
「耐久性だとか信頼性だとかバリュー・フォー・マネーだとか……。そんな理由でしか選ばれないクルマづくりになっていることを、僕ら自身が知っているんですよ。燃費はそこそこ、走りもそこそこ。コストパフォーマンスは確かにいいけれど、そんなの誰がうちの会社に期待しているのか、って話でね。なのに、売れてしまう。どんなクルマをつくったって、『シビック』も『アコード』もきちんと売れていってさ」