ただし、先ほどのB級志向にしても、この不信の蔓延にしても、私には悪いことともいいことともいえません。そのような時代なのだと受け入れていかざるをえないと思うからです。
1つ確かなことは、私たちの時代が下山にさしかかっているということです。いつまでも続く登山があるわけではなく、いつか下山しなければならない。下山というとネガティブなイメージがありますし、登山に比べ価値のないことのように思われるかもしれませんが、そうではありません。
文化も国などが下山にさしかかったときに成熟します。下山の途中では、登山のときよりも気持ちに余裕がありますから、遠くの景色を眺めたり、海をみたり、足もとに咲く高山植物をスケッチする余裕が生まれます。下山を意識すれば、これまでの登山が実りの多い、豊かなものになるはずです。
また心に余裕があれば、いま自分はどこにいて、どこに向かおうとしているのか、そしてその先になにがあるのかを考えることもできます。下山とは、次に山頂を目指すために必要なプロセスでもあるのです。『親鸞』の中でとりあげた歌があります。
「親のない子は夕日をおがめ
親は夕日の真中に」
朝日と夕日、どちらがすぐれているかを議論するのは、意味がないことです。日が昇り、空を渡り、やがて西に傾いていく。そのときの夕日の美しさに人はみな心を打たれる。落日は終わりではなく、夕日の中に明日への希望や予感を感じる。西の空を美しく、荘厳に彩って沈んだあと、日はまた昇るのです。
1932年、福岡県生まれ。戦後朝鮮半島から引き揚げた後、早稲田大学露文科に学ぶ。PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門』(筑豊編ほか)で吉川英治文学賞を受賞。2010年刊行の『親鸞』は第64回毎日出版文化賞を受賞。