翻って、そうした人々の心に、いまの宗教界が何をしたのかというと、東日本大震災に関して言えば、仏教が大きなパワーを見せたことはありませんでした。そういう人の存在感とか言葉が見えたことは、100%なかったと言っていい。法然、親鸞、日蓮のような人物も現れることはなかったのです。宗教界に限らず、これだけ混乱した世の中なのに、変革してやるというパワーを持った人物がいっこうに現れない。なぜでしょう。
私が秘かに思っているのは、そうした人を求める声が小さいんじゃないかなと。あるいは人心がそういう人を求めていないのかもしれません。
たとえばフランスにジャンヌ・ダルクが現れたのは、国難に際して、人々が誰かこの難局を切り拓いてくれる人がいないかと強く待ち望んだからなのです。自分たちが希望を持てるようになるためにはどうすればいいのかを必死で考え、お願いだから誰か出てきてくれという熱望が地熱のように湧き上がり、それに押し出されるようにして彼女が現れたわけです。
特定の人を信じられるのは幸せだと思います。親鸞が世に出るきっかけになったのは、法然との出会いが大きかった。親鸞は、春の海を思わせる声と表情で庶民に語りかける法然という人物をとにかく信じたんです。それがゆえに、念仏すれば往生できるという法然の言葉を信じた。けっして念仏で成仏できる証拠を示されたから信じるとか、そういうことではないんですね。信じられる人の言葉だから信じたのです。
現代人の不幸は、信じることができない「不信の時代」を生きているということです。とくに私たちの世代は敗戦の中で、それまで信じてきたイデオロギーが全部ひっくり返されたために、信じることをやめることにした。若い世代でも、前記のように、何を信じていいのかわからない状態になっているようです。
もう1つ、現代の人に特徴的なのは、過大なものを求めないことですね。これも時代の趨勢なんでしょうが、文学の世界でもその傾向はあります。昔は人生を教えてくれる非常に貴重なものとして「読む」という位置づけだったけれども、いまではカジュアルにエンジョイするために読む傾向が強くなっています。思想も哲学も生き方もすべてがカジュアル化して軽くなり、ファストフード化しているんですね。