改革の総仕上げ「リニア」への道

帰京する81年の3月に発足した臨時行政調査会(第2臨調)は、翌年7月に出す基本答申で「5年以内の分割・民営化」など国鉄改革案を打ち出す論議を進めていた。だが、国鉄社内は猛反対で、形ばかりの民営化を国鉄主導で実現しようと考える。そのために、本社経営計画室の経営計画主幹に、第2臨調の担当を兼務させた。東京へ戻って就いた職が、その主幹だった。分割・民営化反対派の狙いに反して、ここから、改革実現の中核を担っていく。

経営計画主幹は、設備投資も担当した。だが、これ以上の借金は死を早めるだけ。工事を止めるように主張し、さらに社員の採用停止も提案する。新路線もできず、新しい人材も入ってこないのは、とても辛い。でも、塗炭の苦しみを味わい、乗り越えてこそ、「正しいことだけをする」との覚悟が組織に浸透する。そう、確信していた。

「處事不可有心」(事を処するには心あるべからず)――物事を処置していく際には、損得や名誉などをあれこれ考える気持ちがあってはならない、との意味だ。中国・南宋時代にまとめられた『宋名臣言行録』にある言葉で、事の処理には、それが正しいかどうかということだけを考えよ、と説く。どんな場合も「何が正しいか」を基点にする葛西流は、この教えと重なる。

1940年10月、兵庫県・明石で生まれる。長男で妹が2人。父は旧制中学で国語を教えていたが、1歳のころに東京・杉並へ移り、都立の高校で国語と漢文を教えた。自分は都立西高校から東大法学部へと進み、63年4月に国鉄へ入社する。

87年4月、国鉄は、東日本、東海、西日本の本州3社と北海道、四国、九州の三島会社、貨物の計七社に分割され、株式会社として新たに発足した。そのうちの東海旅客鉄道(JR東海)の取締役・総合企画本部長となる。それから1年、全新幹線の資産を受け継いだ保有機構の解体構想、老朽化した新幹線車両の更新、品川新駅の建設、中央新幹線の建設など、その後のJR東海の姿を形づくる構想をほとんど固めた。

詳しくは【2】で触れるが、保有機構の解体と本州3社への新幹線売却は4年後に実現する。一方、車両の更新には、すぐ着手した。JR他社が投資を抑制するなか、2階建ての「100系」車両を大量に発注、国鉄末期の東海道新幹線への投資規模を倍増させた。89年には、山梨県に中央新幹線用リニアモーターカーの実験線を建設すべく、動き出す。

95年6月、社長に就任。新会社発足当時から、急ぐべき施策と将来を展望した布石への着手の双方を着々と進めた実績に、社内外から「事実上の社長」と評されていたが、名実ともに頂点に立つ。株式上場、食堂車の廃止と座席拡充、時速270キロ化など、社長になってからも様々な改革や挑戦の先頭に立ち、2004年に会長となる。

今春、JR東海へきて、26年がすぎた。国鉄での在籍期間は24年だから、新天地での日々のほうが長くなった。だが、改革はまだ続く。2027年に超電導リニアによる東京-名古屋間の中央新幹線が完成したら、ようやくゴールと言える。

「不可有心」の精神通りに、常に「何が正しいか」だけを考え、正しいと思うことを実行していけば、予定通りに必ずゴールへ到達する。これも、確信している。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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