人を動かすのはパッションとチームワーク

荒木田はバレーボール選手だった。76年モントリオール五輪の金メダリストである。

じつは五輪では出場機会にあまり恵まれなかった。73~77年W杯まで日本代表選手として活躍したが、五輪時は代表メンバーがあまりにも強力だったからである。

「ピンチ要員だったから、汗をかいていなかった。それで金メダリストと言われることがおこがましいというところがあって、世間から隠れて歩いているようなところがあったのです」

イベントに出るたび、紹介で「五輪金メダリスト」との枕詞がつく。それがイヤで、バレーボールとは関係のない仕事をしようと思った。78年3月に現役を引退し、日中は日立バレーボール部のコーチをしながら、共立女子短期大学の夜学に通い出す。

向上心の塊、負けず嫌いの塊だったのだろう。仕事と勉強の両立は厳しかった。睡眠時間は2時間程度。「疲れているだけで充実感がない」生活だった。

そこにスイスのバレーボールのクラブから選手兼コーチのオファーがくる。大学を休学し、80年2月、スイスに。26歳だった。コトバの重要性を知り、ドイツ語の勉強を始めた。ドイツ語学校へ、毎日2時間をかけて通った。

81年9月、転機が訪れる。西ドイツ(当時)のバーデンバーデンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会だった。サマランチ会長が立ち上げた50人ほどのアスリート委員会に、国際バレーボール連盟(FIVB)とJOCの代表として参加した。会議の合間に名古屋五輪招致も手伝った。国際スポーツ界の広さと深さ、オモシロさを知った。

英語の必要性も感じ、有り金はたいて今度はイギリスに渡った。1年間、英語の勉強に集中した。ついでに言えば、このとき知り合った英語教師とのちに結婚することになる。