豊臣秀吉の弟、秀長はどんな人物だったのか。歴史家の安藤優一郎さんは「軍事面だけでなく政治面でも兄を支え、天下統一に貢献した。間違いなく秀吉が最も信頼する肉親だった」という――。(第1回)

※本稿は、安藤優一郎『日本史のなかの兄弟たち』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

豊臣秀長像
豊臣秀長像(画像=奈良県大和郡山市春岳院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉のもとで秀長が担った重要な役割

天下統一における秀長の貢献とは合戦や戦後処理の場面だけではない。服属した諸大名に対する接待役、そして秀吉との調整役を務めることで、豊臣政権を安定させ、ひいては天下統一に貢献した。

秀長は弟としての立場を活かし、秀吉と諸大名との間に立って反旗を翻さないよう良好な関係の構築に努めたのである。そのスタンスは、毛利氏や徳川家康に対して顕著だった。

本能寺の変を境に、秀吉と毛利氏はそれまでの敵対関係が180度転換する。秀吉が天下人への道を走れたのは、服属させた毛利氏との関係を維持できたことが大きかった。紀州攻め以降、毛利氏は秀吉勢として軍列に加わり、その勝利に貢献している。

天正13年(1585)の紀州攻めで水軍を派遣したのに続けて、四国攻めでも3万~4万の軍勢を参戦させた。この時の毛利勢を率いたのは小早川隆景と吉川元長もとながである。両人は総大将の秀長と連絡を取り合いながら、毛利勢を展開させる。四国攻めを通じて秀長と毛利氏の関係は深まったことは容易に想像できる。

四国攻めの論功行賞で隆景は伊予を与えられたが、その際には毛利氏が秀吉から拝領した上で、主家の毛利氏から改めて与えられる形が取られた。隆景が毛利氏への恩賞という形式にこだわったからである。秀長が秀吉との間に立って調整役を務めたのだろう。