同じ「熱」が共有されている

2000年5月、EC(電子商取引。eコマース)サイト「ケンコーコム」がスタートする。この前後数カ月間が、後藤さんの勝負の時となる。まず、ここまでのDM(ダイレクトメール)による健康食品販売はうまくいっていた。

「大分の実家と同じ規模くらいの売り上げにはなっていて、じゅうぶん喰っていけました。でも、それってつまらないな、と」

ここまで自己資金だけでやってきた後藤さんは、IT分野への投資を決断。2000年を迎えた日本の資本市場はITバブルの真っ最中。ベンチャーキャピタル(VC)が数億円単位の出資の話を持って来た。

「彼らは『出資しますけど、使い切れますか』と言う。ぼくの方も企画書だけでお金を調達することへの違和感があったし、そもそも数億単位のお金を使うことへのリアリティもなくて」

そうこうしているうちに2000年3月になり、ITバブルは崩壊。VCは手のひらを返す。だが、後藤さんの自己資金によるIT投資はもう後戻りできない状態になっていた。

「7月か8月には資金が足りなくなることがわかっていました。そこで『困っているんですよ』と上田谷(うえただに)さんに相談したところ、彼のほうでもちょうど投資先を探していたところで」

上田谷真一さん。ブーズ・アレン・アンド・ハミルトンを経て、1995年に大前さんの事業会社「大前・アンド・アソシエーツ」のパートナー(共同経営者)に。ABS立ち上げにもたずさわっていた。このころは大前さんとインキュベーション会社の立ち上げを準備中だった。後藤さんとは互いがコンサルタントだったころから知り合いだった。

「後藤さんはABSで頑張ったんだから、出そう。今、どんなにマーケットが悪くても、ITが世の中を変えていくことは間違いない。後藤さんがほんとうにECに賭けているのなら、出そうじゃないか」

上田谷さんが後藤さんに伝えた大前さんのことばだ。ケンコーコムは資金ショートの窮地を脱した。その間、後藤さんと大前さんは直接会ってはいない。

「実際、今日に至るまで、大前さんとは何度もお会いしているわけではないんです。でも、ぼくが『スピンアウト』ということばを知って1996年にABSに入ったとき、大前さんは『Just Do It』と言っていた。2000年にぼくがECに賭けようとしていたとき、大前さんはEC革命の本『ドットコム・ショック』を世に出していた。ぼくの理解では、大前さんとの間に同じ『熱』が共有されているのかな、と」

細かいことを補足しておく。2000年の夏、大前さんが準備していたインキュベーション会社の設立登記が、後藤さんがキャッシュを必要とするタイミングに間に合わない怖れがあった。窮地をすくったお金は、大前さん個人から振り込まれたのである(のちに設立が成ったインキュベーション会社に振り替えられている)。

「大前さんは、世間では冷徹に見られている方かもしれませんが、すごく温かい部分があるんです。全体がけっして丸いわけではないと思いますが、右脳と左脳でそれぞれ尖っている部分がある。左脳で尖っているのが『冷徹な分析』。右脳は『パッション』と『遊ぶときは徹底して遊ぶ』。そう、どちらかというと、右脳のほうが強いと思いますよ」

あの日のウィスラーの山小屋でも"徹底して遊んでいる"最中だったので、とても「マッキンゼーに入れてください」と言える雰囲気ではなかったのです、と後藤さんは笑う。

「ぼくは、大前さんという方はどちらかといえば、芸術家だと思うんですよ。『自分なりの絵』というものが、つねに頭の中にある。そして、その絵が何なのかという説明ができるというのも大前さんなんです。『絵』と『現実』のギャップが大きいほど人からは理解されないけれど、それを理解させることができる。それが大前さんだと思います」

(次回は《大前研一入門・最終回》6月17日更新予定)