祖母の死
「え! 進学した? どこの学校だ?」
高校生になった胡麻さんは、入学式の朝、突然父親にこう言われて面食らった。父親は、娘がいつもと違う制服を着ていたことに気づいたのだ。
「母も祖母も、私が進学したことを父に伝えていないことも驚きましたが、父自身、自分の娘である私のことを知ろうともしていなかったことを知り、唖然としました」
やがて、高3になった胡麻さんは、「短大でもいいから」と進学を希望したが、母親に「働いて」と言われ断念した。
「当時、兄は1年浪人して県外の4年制大学に在学し、さらに2年大学院へ。親からの仕送りでアパート暮らし。同時期、父も県外に単身赴任中で、3カ所バラバラの生活は支出が多く、家計がきつかったのでしょう。のちに奨学金で進学という方法を知りましたが、その時は誰も教えてくれませんでした」
就職した胡麻さんが稼いだお金の半分は、母親によって勝手に家に入れられていた。文句を言うと、「家に入れるのが当たり前でしょ! 家賃がいらないんだから安いものよ」と言われ、定期預金通帳とハンコは母親に管理された。
母親に縛られていると感じた胡麻さんは、友人や職場の同期の家、彼氏の家などを転々と泊り歩き、極力家に帰らないようにした。
そして成人式前の年末、祖母が肝臓胆管がんで余命3カ月と診断される。
同じ頃、就職先は赤字続きで同期が次々と退職しており、胡麻さんも「余命わずかな祖母に寄り添いたい」と退職。昼間は入院先で祖母に付き添い、夜は居酒屋でアルバイトをする。
祖母は半年後に亡くなった。
その年の9月、製薬会社に正社員として採用されるが、父親はまだ単身赴任中で兄は大学院。胡麻さんはやはり実家を避け、友人や彼氏の家を渡り歩いた。
あんな家庭にはなるまい
胡麻さんは20歳頃、機械系の会社員である同じ歳の男性を友人から紹介され、24歳の時に結婚。結婚後は、母親から催促されるため仕方なく、お盆と正月、法事などの行事の時は夫と共に実家に顔を出した。
結婚3年後には、胡麻さんの貯金500万円を頭金として3000万円のローンを組み、新築一戸建てを購入。過疎化が進む不便な山間に暮らす義両親を思い、同居を申し出たが「住み慣れた土地を離れたくない」と断られた。
なかなか子どもを授からなかった2人は、不妊治療を経て28歳の時に長女、その2年後に次女に恵まれた。
マイホームを購入したばかりだったため、夫に「産前産後休だけですぐ働いてほしい」と言われ、胡麻さんは産後2カ月で復帰。月・水・金は義母。火・木は実母に家に来てもらい、帰宅するまで子どもたちを見てもらった。
「母乳が出過ぎたため、仕事を2時間毎に抜けてしぼり、冷凍して持ち帰っていました。離乳食期には、子どもの離乳食はもちろん、母たちの昼ご飯も用意して出勤していました。私が育ったような会話のない家族はこりごりだったので、『あんな家庭にはなるまい』という思いが強く、仕事を続けても家事や子育てに手を抜きませんでした。夕食はなるべく家族そろって食べ、子どもがしたいと思う習い事に協力し、年に1〜2度は家族旅行。夫は月曜定休だったので、休日のタイミングが合わず大変でした」
長女の子育てが大変だったので、次女が生まれた後は「保育所が受入れ可能な7カ月まで育休させてほしい」と夫に頼み、次女が7カ月になったときに、2人同時に保育所に預け、送迎は胡麻さんがほぼ1人で担った。
「夫は日曜隔週、月曜定休日。平日の帰宅は、20時~21時が当たり前。12月~3月決算期は深夜帰宅。今みたいに共働きだからって“家事育児分担”なんてなかった時代です。仕事が忙しいので頼み事なんてできません。かろうじてゴミ出しだけやってくれていました。子どもの行事は、卒園式・入学式・卒業式、これだけは休んでもらいましたが、他は夫は欠席です。その代わり、双方の祖父母に参加してもらいました。休みが合えば家族でショッピングや旅行をしましたし、子どもが小学校に入った頃は習い事が増え、送迎の協力があったりもしましたが、ほぼ私一人で奮闘してましたね」