【流浪の「転職5回」人生で評価ダウン
「空回りの日々」:検証ルポ40代】

■自分の実力と勘違い「時代の流れに乗っただけ」

坂井利幸氏(47歳・仮名)がそれまで勤めていた証券会社を辞めて、外資系証券会社に転職したのは、1996年5月のことだった。それまでは、大学を卒業して以来、ずっと同じ会社で働き、定年まで勤めあげるだろうと思っていたという。

その考えが変わったのは、外資系証券に勤める友人との会話だった。

坂井利幸氏(仮名)<br>
1960年生まれ。47歳。大学卒業後、国際準大手証券に入社。96年に外資系証券会社に移って以降、現在5社目で働く。「この十数年は、自分を磨くことをしなかった」とは坂井氏の弁。
坂井利幸氏(仮名) 1960年生まれ。47歳。大学卒業後、国際準大手証券に入社。96年に外資系証券会社に移って以降、現在5社目で働く。「この十数年は、自分を磨くことをしなかった」とは坂井氏の弁。

「不良債権など金融問題が必ず話題になっていました。当時、私は管理部門の業務に携わっていたのですが、勤めていた会社もバブル期の巨額投資などが祟って、他人事ではなかった。一方で、健康体の外資系は、日本市場で存在感を高めつつありました」

人材を求めていた外資系証券に勤める知人の誘いを受けて、坂井氏が転職を決意するまでに、さほど時間はかからなかった。35歳のときだった。

「当時、まだ『IT』という言葉は一般的にはあまり知られていなかったのですが、国内、外資を問わず、多くの企業が業務を効率よく管理するシステムを構築する方向にありました。そうした仕事に携わっていた私は、転職しやすかった。年収は転職前の700万円から1000万円を超えました」

97年に入ると不良債権問題が急浮上し、大手金融機関の破綻などで日本経済はいよいよ迷路にはまり込む。国内金融機関の弱体化を尻目に、外資系金融機関はますます台頭していく。坂井氏は、99年、2002年と2つの外資系金融機関を渡り歩き、年収は1600万円にまで増えていた。

間接部門の仕事なので、ファンドマネジャーなどのように、能力次第で億単位の年収を手にすることはできないが、転職で着実に収入は増えていく。坂井氏は「自分には、実力があると密かに自負していた」という。

それが暗転したのは、05年に4回目の転職をしたときだった。あるメガバンクで、コンプライアンス関連の新しいシステムを構築する仕事に携わることになった。

「情報管理といったことはもちろんですが、組織の仕組み、業務の流れ、法律など、企業を取り巻くあらゆる知識を総動員しなければなりません。それまで、自分もそうした仕事をしてきたし、知識もあると思っていた。ところが、チームの若手社員のほうが、はるかに豊富な知識を持ち、優秀でした。振り返ってみると、それまでシステム構築や運用は、部下やIT系のシステム会社に任せて、滞りなく業務ができさえすればよかった。私は、単なる管理者でいたんです。要するに、スキルを磨くことをおろそかにしていた」

当初、現場のサブリーダー的な役割を担い、最終的には部門マネジャーになることを前提に転職したのに、チームの動く方向に追随する自分がいた。結局、そのメガバンクでは居心地が悪く、転職して7カ月後にはそそくさと退職。いま坂井氏は、外資系生保に籍を置いている。

「外資系は厳しい。しかし、業績好調のときはぬるま湯なんです。自分は、それにどっぷり浸かっていた。外資系が脚光を浴びる時代とIT化の流れに乗っていただけなのに、それを自分の実力と勘違いしていた。いまは、コンプライアンス関係の資格を取ろうと猛勉強しているところです」

現在の年収は1400万円。収入は申し分ない。しかし、転職5回で気づいた、坂井氏の「空回り人生」は挽回できるだろうか。

(荻野進介=構成 山下諭=文(ルポ))