その書きぶりは安全でもあり、“狡猾”でもある
中居自身にも関連するテレビ局にも多くの損害が出ているわけだが、これに対して“焚き付け役”である『週刊文春』は、責任を負うことはないだろう。『週刊文春』が書いているのはあくまで同誌が取材した中でわかった“性的トラブル”があったということであり、中居が性加害者であると断じる内容ではないからだ。
その線引きは、相当に考えて記事が出されているはずである。筆者自身、先月、文藝春秋から『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』を出版したが、その際も厳重に法務部のチェックが入った。それは倫理的におかしな部分がないか、訴訟リスクがないかなどをチェックするものだと説明され、それは書き手としては安全だと感じられるものでもあった。
だが、そのチェックの目的が、記名のない週刊誌による、他者を責め、ネットユーザーを焚きつける機能を持ちながらも、自らの安全性だけは守ろうとする行為だとすれば、それは“狡猾”とも言えるだろう。その線引きを間違えば、文藝春秋側が訴えられる可能性もある。
最近でも、文春オンラインに2019年に掲載された〈「あの人は私を2週間毎晩レイプした」広河隆一“性暴力”被害者が涙の告発〉という記事は、見出し部分に不法行為が成立するとして、文藝春秋に55万円の賠償を命じる判決が出たばかりである(文春側は控訴する方針)。
解決済みの事案で人はどれほどの罪を受けるべきか
もちろん火元の『週刊文春』だけではなく、その責務は匿名のネットユーザーたちにも向けられるべきである。「強い言葉」のほうがインプレッションを稼ぎやすいSNSの世界の中では、無責任に他者を責める言葉が溢れていく。
その中で、「性的トラブル」は「性加害」になり、中居正広は「性加害者」になっていき、中には「犯罪者」というような言い方をされることもある。言うまでもないが、刑事事件にはなっておらず、有罪が確定したわけでもないので、犯罪者ではない。
もちろん、筆者は、中居に罪がないと言っているわけではない。個人的な感覚で言えば、誰かを害した時点で、それは罪であると考えている。
性加害や暴力行為などわかりやすい加害行為ではなくても、誰かの心を傷つけ、害した時点でそれは罪ではある。何が起きたかはわからないが、中居を今も“加害者”と呼び、PTSDになった女性がいるのであれば、それは罪である。
この世の中には、犯罪になっていない「罪」が山ほど存在する。
だが、その罪が犯罪にならないものだった場合に人はどれほどの罰を受けるべきなのだろうか?
今回のように、示談を含め、一度は当事者間で解決した場合は、どうなのだろうか?
どんな罰を受ければ、その罪を償ったことになるのだろうか?