※よでぃ『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい ネガティブなままこの世を生き抜くための30のレッスン』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「ありのまま」でいるのは苦難の始まりだった
「ありのままの自分で生きよう」
現代を生きている多くの人が、一度はこのフレーズを聞いたことがあるだろう。
自分を偽らずに、ありのままの自分をさらけ出すことが人間関係において大切な在り方なのだという。
しかし、ありのまま自然体でふるまうことは素敵だけど、いつも他者の前でありのままでいる必要なんてないと僕は思っている。
私は私のままでいい。ありのままでいればいい。
一見きらびやかなこの言葉は、ときにあなたを苦しめる言葉にもなる。人間関係において、どのような自分で他者と接すればいいのかに悩んでいたころ、僕はありのままの自分でいようという言葉を聞いて自身の在り方の正解を提示してもらったかのような感覚を抱いた。
僕は僕のままでいようと、そう自分に言い聞かせて、素の自分のままで人と接するように努めた。
だけどそれは、新しい苦難の始まりに過ぎなかった。
どんなにありのままの自分でいようと努めても、人に嫌われることは怖いし、どうしても他人に気を遣ってしまう瞬間もある。それでもめげてはいけないと自分を律し、素の自分でいようと意識し直す。
けれどだんだんと、ありのままの自分でいようとすることに疲労感を覚えるようになる。
最終的に、どんな自分が「ありのままの自分」なのかがわからなくなってくる。
この矛盾が対人関係の「息苦しさ」を生んでいる
そもそもの話、「ありのままの自分でいよう」と頑張っている時点で、果たしてそれは「ありのままの自分」と呼べるのだろうか。
「ありのままの自分を演じている自分」という、矛盾した状態を生じさせてしまっているだけなのではないだろうか。僕はこの矛盾こそが、対人関係における息苦しさの一つの要因であると考えている。
自分自身の在り方に正解を求めようとすればするほど、かえってどう振舞えばいいのかがわからなくなり、生きづらさを感じてしまうものなのだ。
だから、無理にありのままの自分を人に見せようとする必要はない。ときに他人に気を遣ってしまったり、ときに偽りの自分を演じたりしてしまっても、それも一つの生きる術なのだ。
ありのままの自分を受け入れることは生きやすい人生を送るうえで重要なことだが、その姿は必ずしも他人にさらけ出さなければいけないというものではない。
「ありのままの自分を大切にすること」と、「ありのままの自分を他人に見せること」は、また別の話だということだ。