ただ、「この人と一緒にいるときの自分はあまり気負わずにいられるな」と感じられる相手もまれにいる。変に気を遣わず、むしろ一緒にいて安心感を覚えるような、そんな人との出会いが稀にある。

そういった人と過ごす時間こそが、人生を豊かにしてくれるものなのだと僕は思う。

ありのままの自分でいることが難しい世界だからこそ、ありのままの自分でいられる人とのつながりは、かけがえのない人生の財産なのだ。

結局のところ、人との距離感に絶対的な正解はない。
ありのままの自分なんて、無理して見せるものではない。
ありのままの自分を見せてもいいと思える相手にだけ、見せればいい。

自分がいちばん「心地いい」と思える在り方こそが、自分にとっての正解の生き方なのではないだろうか。

人間関係の悩みの正体は「他人に対する期待」

信じていた人に裏切られた。そう感じた瞬間に、人はひどく絶望感を覚えるものだ。

嘘をつかれたとき。
約束を守ってもらえなかったとき。
相手が自分の思い描いていた人物像とは異なっていたとき。
相手を信じた自分の心をないがしろにされたかのような、強い寂寥感せきりょうかんに襲われる。

そのような経験をしたことがある人は、少なくないだろう。

路上でスマホに目を落としている男性
写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen
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そもそも「信じる」とは何なのか

僕もずっと、他人を信じ続けて生きてきた。人を信じるということは、尊い行いなのだと、そう思っていた。

けれど、他人のことを信じた分だけ、裏切られたと嘆く日もあった。幾度となく悩み、傷つき、苦しんだ。

だんだんと、僕は人を信じることが怖くなっていった。しかし、そもそも「信じる」とはいったい何なのか。

相手に対してああしてほしい、こうであってほしいと願うのは、果たしてその人のことを心から信じているといえるのだろうか。

それはただ、「信じる」という言葉の美しさを隠れみのにして、一方的な期待を相手に押し付けてしまっているだけなのではないだろうか。さらに、人が人間関係で傷つくのは、いつだって相手に対して期待を抱いているときだ。

自分が期待していたものとは異なる相手の言動や行動に、心がダメージを負ってしまうのだ。すなわち、「信じていたのに裏切られた」のではなく、実際はただ自分の中の期待通りではない相手の一面が垣間見かいまみえた、という事実がそこにあるだけなのだ。