「三種の神器」として、爆発的に普及

昭和30年には生産台数も28年の10倍をはるかに超える13万7千台となった。価格も昭和30年には14型は12万4千円だったのに、年を追って安くなり、田中が郵政大臣に就任したころは8万1千円、そして昭和33年に入ると7万6千円となった。

さらに三洋電機が2万8500円のテレビ受信機を市場にだすと、爆発的に各家庭に入っていった。昭和31年ごろの神武景気によって、テレビ受信機は洗濯機、冷蔵庫とともに「三種の神器」と称された。そして、昭和34年4月の皇太子御成婚を機に飛躍的に売れ、日本の全戸数の50%を超える普及率を示すに至った。

田中は、このようなテレビ受信機ブームを演出した政治家としても家電業界に名をのこすことになる。電波監理審議会が答申していた「6局を11局に」を忠実に受け継ぐ郵政官僚に耳を貸さず、再度審議会に案を練り直させて、「もっと多くの局をつくってかまわないから、改めて諮問し直してほしい」と注文をつけたことがきっかけだったのである。

テレビおよびビジネスマン
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「これからはテレビの時代」が的中

こうして最終的に、NHK7局に免許を与え、民間のテレビ放送企業34社、36局を許可することになった。日本にそれだけの技術力があるか、それほどのテレビ局が必要か、という指摘に対して、田中は「これからはテレビの時代。国民生活に潤いを与え、勤労意欲を高めるための免許許可である」と譲らなかった。

田中は後年になって、テレビ受信機が100万台にも達していないのに、テレビ放送局がどうしてそれほど必要か、と問われたときの自らの思い出話を至るところで語っている。

「今後15年くらいでテレビ受信機は1500万台ぐらいにふえるだろうと予想したんだ。それが当たったどころか、その3倍も5倍もの数になったではないか」と自慢気だし、早坂茂三著の『田中角栄回想録』によるなら、「テレビ局の大量免許はテレビ受信機の生産拡大だけじゃない、輸出の拡大にもつながり、やがて電卓、電子機器の爆発的な輸出に連動していったんだ」と見通しのよさを自賛してもいる。