労働組合に厳しく対応し、評価は上々

郵政大臣としての田中は、まず省内の派閥人事を解体してしまうという荒療治を行った。このころ郵政省は、二大派閥人事が横行していて、省内では凄まじい対立抗争が続いていた。加えて、労働組合(全逓)の力も強く、組合活動が日々の業務と一体化するというほどの乱れようであった。

労働組合のストライキや職場大会のたびに、田中は遠慮会釈なく処罰を行った。組合活動家の反発も買ったが、しかし官僚や政治家には、田中の政治力を見直すきっかけにもなった。田中は強引な手は用いるが、組織のけじめをつけることに関しては、相応の力を発揮する、という評価であった。

田中がこうした政治技術を身につけたのは、郵政大臣の就任前に国会の商工委員会の委員長を務めていたときの体験がもとになっている。昭和30年から31年にかけての委員長時代、田中はそれまでの委員会審議をまったく無視した。田中自身が、昭和59年4月の、ある編集者とのインタビューで次のような告白をしている。

国会でのワンマン運営の経験が生きる

「大体、党や役員会などで、いちいち(法案の)説明などしていたら、大仕事はできやしない。今の(自民党の)政調会なんかに上がっては駄目だ。ぼくは、商工委員長のときに24回か25回、法を通したんだが、理事会なんか1回も開いていない。そのころはまあそれが当たり前といえば当たり前でもあったんだ。その法案の中には、石炭売山法から輸出入取引法の改正など重要なものもある。鳩山内閣の時代だ」

田中は、鳩山内閣の誕生時は自由党所属だから野党だが、昭和30年11月に保守合同が成ったときは、与党という立場になっている。ただ野党時代の委員長としては、強引な国会運営を進めた。

田中は、委員長にあれこれ抗議する者には、「私語を禁ずる」とか「退場を命ずる」とう具合に、なんのためらいもなく議事進行を進めたというのであった。