郵政官僚は「6→11局」を進言したが…
田中がそれぞれの地方に大量に免許を与えるつもりだとの意思が伝わると、郵政省の技術陣はそれだけの技術力が日本には備わっていないと首をひねったといわれているし、事務当局も果たして日本にそれほどのテレビ企業が必要なのかと懸念を示した。
大臣席の机に、現行での方針、つまりNHKの地方局5局と日本テレビ、計6局を11局に(東京での民間放送やNHKの地方局を若干増やして11局とする)増やすという方針を守るべきだとの意向を文書にして届けていた。
田中は、事務方のこういう方針をまったく相手にしなかった。官僚の方針などに自分は囚われないとばかりに、「申請が多いのだから、それを調整して免許を与えればいいだけのことだ。その調整は自分がやる」と前面にのりだして申請者の企業人や新聞社幹部、それに政治家と個別に会い、「あなたの地方から3局も4局もつくりたいと申請がきているが、そんなムダなことはしないで、話し合って1社にしぼりなさい」と説得した。
テレビは当時の庶民にとって「高嶺の花」
テレビの免許問題は、単に電波を与えるというだけではなく、テレビ受信機という機器の開発・生産が国内メーカーの育成につながるという利点もあった。
というのは、もともとNHKがテレビの本放送を始めたときの受信契約数はわずかに866台にすぎず、テレビそのものが庶民には高嶺の花だったのである。その1年後に1万台に達したが、それでも当時の平均月収の5倍から6倍ものテレビ受信機を購入できるのは、限られた高額所得者だけだった。
そのころ財界でも、「受信機を普及させるために輸入依存もやむを得ない」と主張するラジオ東京社長の足立正と、「テレビ受信機は国産品に限るべきで、確かに今は技術は劣っているが、将来のエレクトロニクス技術の土台をつくるために国産に徹するべき」と主張する東芝社長の石坂泰三との対立があった。
こうした対立は、主に電子工業の側の技術陣を励ますことになり、テレビが洗濯機や冷蔵庫と並んで次代の主力製品となると見て、東芝や日立、それに松下電器産業などが、莫大な研究開発費を投入して、量産体制をつくっていった。