日本社会に巣くう「官僚主義」にメス
田中が郵政大臣に就任したあとで、省内人事や組合活動にメスをいれていったのも、こうした強引な手法だった。そのことは同時に、日本社会に巣くっている悪しき官僚主義の改革を促すものであった。
このような手法は、国民が疲弊を感じている停滞した組織を活性化させることになるので、むしろ「田中は実行力の伴った政治家だ」という評判を生んでいったのである。
このような評価を得たあとは、こんどは逆にそうした組織を自らの意に沿うようにつくりかえていくという能力も併せもっていたために、田中は、少しずつ国民の間にその政治力を認められていくことになった。
田中は、郵政大臣の時代に、新しい免許事業を自らの手で進めている。テレビの免許に田中なりの配慮をしていき、そして政治力をなおいっそう固めた。
テレビの免許問題で見せた「決断と実行」
田中が郵政大臣のポストに座っていたのは、昭和32年7月から翌33年6月までの1年足らずである。もともとこのポストは「伴食大臣」といわれていて、大物代議士が座る例は少ない。当時は利権に直接結びつくというわけではなかった。
ただこの時期の郵政省には、テレビ事業に免許を与えるという難事業があった。
昭和28年にNHKがテレビ放送を始め、つづいて正力松太郎の経営する日本テレビも放送を始めていた。こうした放送の電波は、郵政省が与える免許によって認可されるが、テレビ放送は次代の有力なメディアになるとして、各地からテレビ企業を起こしたいとの申請が相次いでいた。
田中の前の郵政大臣は、この申請の多さにどういう対応をしていいか、その基本方針を決めていなかった。それぞれの地方からの申請は、有力地方紙を母体にしながら、地元財界人や地元の政治家がその企業を支える体制をとっていたから、片方に認可を与え、もう片方をないがしろにするというわけにはいかなかったのである。
田中は確かに自ら「決断と実行」を口にしているだけあって、郵政大臣に就任した折にも「郵政大臣というポストはこれまでのように伴食大臣であっていいわけはない。郵政大臣としてまず取り組むことは、国民生活にもっとも関心のあるテレビ事業の免許問題である」と話したが、田中のこの発言は郵政省内部でも率直に受けいれられたわけではなかった。