浜松周辺では民家が全滅した

「安政」という元号からは、安政5年(1858)に大老の井伊直弼が尊王攘夷運動を弾圧した「安政の大獄」を連想する人が多いと思う。だが、「安政」という元号を冠したできごとにはもうひとつ、より広範囲に甚大なダメージをあたえたものがあった。地震である。

正確には元号は安政ではなかった。嘉永7年(1854)11月4日の午前9時から10時ごろ、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする、マグニチュード8.4と推定される巨大地震が発生した。「安政東海地震」である。嘉永時代の地震になぜ「安政」という元号を冠しているのか。その理由は追って説明するが、ともかく、この地震は南海トラフ巨大地震のひとつだとされている。

その語自体は、いまやだれでも知っている南海トラフ。それは四国の南方の海底に存在する、水深4000メートル級の深い溝(トラフ)のことで、その北端部は駿河湾内まで延び、その部分は駿河トラフとも呼ばれる。「安政東海地震」では、このトラフの東半分から駿河トラフにかけて震源域となった。

とりわけ遠州灘沿岸の被害が甚大で、沼津(静岡県沼津市)や天竜川の河口地域(静岡県磐田市や浜松市)では、全滅した町も多数あったという。また、清水(静岡市清水区)から御前崎(静岡県御前崎市)にかけては地盤が1~2メートル隆起し、清水港をはじめ多くの港が使用不能になった。

伊豆半島南端の下田(静岡県下田市)も推定6~7メートルの津波に襲われ、948戸中927戸が流出して、122人が溺死。ロシアの極東艦隊司令官プチャーチンが乗るディアナ号も津波に遭遇して大破している。

また、震源から離れた内陸も、たとえば甲府(山梨県甲府市)では7割の家屋が倒壊。松本(長野県松本市)や江戸でも一部の家屋が倒壊するなど、被害はかなり広範囲におよんでいる。

安政の大地震絵図を描いた当時の瓦版。江戸のほか全国各地で火災による被害が発生した。
安政の大地震絵図を描いた当時の瓦版。江戸のほか全国各地で火災による被害が発生した。(写真=東京都立図書館デジタルアーカイブより。A news broadsheet “Kawaraban”, 1855/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

32時間後にふたたびM8

だが、地震はこれだけでは済まなかった。わずか32時間後に、やはりマグニチュード8.4と推定される「安政南海地震」が発生したのだ。震源域は紀伊水道から四国沖だった。今度は南海トラフの西半分が震源域となったのである。

立て続けに地震が発生したため、この年の11月27日、元号が嘉永から安政に改められた。だが、改元前も年表上では安政元年に該当するので、東海地震も南海地震も「安政」と冠されているというわけだ。

なかでも被害が大きかったのは、震源に面している土佐(高知県)で、5~8メートルの津波に襲われ、倒壊家屋3000戸余り、焼失家屋2500戸余り、津波による流出家屋3200戸余り、死者372人とされる。現在の高知市内は地盤が1メートルほど沈下して浸水。ほかの地域でも、1メートル前後の沈下や隆起があったといわれる。

高知県南西部にある土佐入野加茂神社にたつ安政津波碑。
高知県南西部にある土佐入野加茂神社にたつ安政津波碑。(写真=As6022014/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

また、紀伊半島の津波は7メートルに達したとされる。大坂湾北部にも推定2.5メートルの津波が押し寄せ、多くの橋が流され、8000隻ほどの船舶が破損したとされる。当時、縦横に水路がめぐらされ、水の都と呼ばれた大坂では、川船で避難しようとした人が被害に遭ったようだ。そもそも近畿地方は、東海地震の被害と南海地震の被害をダブルで受けた。

これら2つの地震による全国の被害は、全壊家屋2万戸余り、半壊家屋4万戸余り、焼失家屋2500戸余り、流出家屋1万5000戸余りにおよび、死者は約3万人と推定されている。