巨大地震が引き起こした富士山噴火
しかも、宝永地震から49日がすぎた11月23日、今度は富士山が五合目付近から大噴火した。むろん、宝永地震との関連性を指摘する声は大きく、実際、地震直後から富士山で怪しい鳴動や小地震が感じられるようになっていた。
この噴火は16日間続き、噴煙は1万メートルの高さにおよび、富士東麓の村々が火山灰や火山礫、噴石などで埋まったのはもちろん、火山灰は江戸にも数センチ積もった。江戸の町が日中でも真っ暗になったと伝えられている。

復興のために幕府や藩の財政が悪化の一途をたどったことは言うまでもない。なにしろ宝永地震の4年前の元禄16年(1703)11月23日にも、「元禄地震」が関東を襲い、1万人を超える死者が出ていた。マグニチュード7.9~8.2と推定され、房総半島や三浦半島の大規模な隆起の規模からしても、大正12年(1923)の関東大震災よりはるかに大きな地震だったと考えられるという。
震源は相模トラフ。これらの地震や噴火による混乱を経て、上方の豪商を中心に花開いていた華麗な元禄文化も潰えてしまった。
江戸時代の災害は、未来の予告
ところで、同時期に大地震が発生したり、富士山が噴火したりした過去があるが、それらは連動しているのかが気になるところだ。たとえば、内閣府防災情報には「宝永地震のような非常に大規模な地震の発生後数カ月間は、誘発される別の地震や噴火、土砂崩れなどの災害にも注意が必要である」と記されている。また、宮地美陽子氏は、南海トラフ地震と首都直下地震や富士山噴火の連動について言及している(『首都防衛』講談社現代新書)。
ところで、上に挙げた江戸時代の被害状況は、現在よりも人口が少なく、密集の度合いも小さかった時代の記録で、現代に同規模の地震が発生したら、被害はこの規模では済まない可能性がある。しかも江戸時代の災害は、未来の予告でもある。南海トラフ地震にも周期があり、私たち日本人の平和は前の災害と次の災害のあいだの、かりそめのものだともいえる。だが、過去の災害を知れば、ふたたび襲う災害に備える心構えもできる。