大地震だけでは終わらなかった

しかも、怖いのはその後、この「南海トラフ地震」が引き金になったのか、たしかなことはいえないが、全国で地震が続いたことである。

これらの地震が発生する5カ月近く前には、三重県伊賀市北部を震源とする「伊賀上野地震」が発生していた。これは内陸直下型地震とみられ、マグニチュードは推定7.2~7.3。奈良や大坂でも被害が記録され、1500人以上の死者が出たと考えられている。

そして安政南海地震の40時間後の11月7日には、豊後(大分県)と伊予(愛媛県)のあいだの豊予海峡を震源として、マグニチュード7.4と推定される「豊予海峡地震」が発生した。豊後での揺れは南海地震よりも大きかったとされる。

翌安政2年(1855)は、2月1日に飛騨(岐阜県北部)の白川郷(白川村)を震源とする、推定マグニチュード6.8の「飛騨地震」が発生。その後、同年11月7日に起きた安政東海地震の最大の余震を経て、11月11日にマグニチュード7クラスの「安政江戸地震」が発生した。江戸では町屋はもちろん、大名屋敷や武家屋敷も多くが倒壊し、幕府による公式調査だけでも、倒壊家屋は1万4000戸を超えた。死者は1万人前後と推定されている。

記録で確認できる日本最大級の地震とは

この安政の大地震を百四十数年さかのぼる宝永4年(1707)10月4日、やはり東海道沖から南海道沖の南海トラフ沿いを震源域とする「宝永地震」が発生していた。マグニチュード8.6と推定されるこの地震では、南海トラフの全域が同時に揺れた。しかも全域にわたってプレート間の断層破壊が発生し、江戸時代をとおして最悪の被害をもたらした。記録で確認できる日本最大級の地震でもあった。

この地震による被害状況は、幕府の記録が火災等でみな焼失しているため、不明な点も多いのだが、尾張藩士が幕府の報告書を写した記録によれば、最大の被害に見舞われた大坂では、地震6日後の時点で3537の家屋が倒壊、5351人が圧死し、1万6371人が津波で溺死したと記されている。

宝永地震の震度
宝永地震の震度(写真=As6022014/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

また、全壊家屋は5万戸以上で、流出家屋が2万戸前後、壊れた堤防は全長800キロにおよび、被害を受けた田畑は30万石前後だったとされる。津波の規模も大きく、土佐では標高18メートル、内陸数キロまで達した地点もあり、沿岸部の集落は軒並み壊滅したとされる。まさに東日本大震災並みの津波が襲っていたのである。

大坂の被害が大きかったのは、この大都市を津波が襲い、街中の運河を水がさかのぼったからである。また、津波は紀伊半島で十数メートル、下田で7メートルなど、広範囲にわたって襲ったようだ。