蔦屋重三郎が大活躍できたワケ

将軍吉宗による享保の改革は、農地を増やすが、お金は使わせず、できるだけ取り立てるというもので、単純明快だが従来の農本主義から一歩も出ておらず、収奪される側に心身の余裕が生まれるようなものでもなかった。そもそも刹那的な弥縫びほう策にすぎなかったともいえる。

一方、田沼意次の改革は、いまを生きる私たちには、とても自然に感じられるのではないだろうか。商品経済を活性化し、輸入と輸出のバランスと取り、それらの土台となる貨幣のシステムを合理化し、同時に食糧の増産も図る。いわば理に適った構造改革を進めようとしたのである。

田沼意次像(牧之原市史料館所蔵)
田沼意次像(牧之原市史料館所蔵)〔写真=PD-Art(PD-old-100)/Wikimedia Commons

実際、民間の経済活動は大きく刺激され、幕府財政も一時的には改善された。さらには歓迎すべき副作用として、社会に自由な気風が生じ、学問から思想、芸術にいたるまで、あたらしい発想が満ちあふれることになった。こうして、蔦屋重三郎のように発想力と進取の気性に富んだ人間が、活躍する余地が生まれることになった。

人々の生活が金銭中心になったことで、世間に賄賂がはびこるようになったのは事実だと考えられる。ただし、意次が賄賂を受け取ったという記録はない。

また、天明の大飢饉が発生し、浅間山が噴火して飢饉に拍車がかかったのを機に、意次の改革が頓挫したにしても、それはあくまでも表面的な話である。飢饉がはじまってからも財政再建と生産増大が滞ったわけではなかった。

飢饉を機に、先進的すぎて多くの人が理解できなかった政策が、まるで飢饉の原因であるかのようにやり玉に挙がったことで、その政治の終焉につながった、というのが実態だろう。

600石→5万7000石へ大出世

意次が「成り上がり者」だったために、妬まれたという面は否定できない。

意次は旗本の田沼意行の長男として享保4年(1719)に生まれたが、意行は最初、幕臣でさえなかった。紀州藩士だったのが、紀州藩主だった吉宗が将軍になると幕臣に編入されたのである。吉宗の信頼は厚く、享保19年(1734)には吉宗の身の回りの世話をする側近のトップ、小納戸頭取になっている。

とはいえ小禄で、享保20年(1735)、父が死んで意次が家督を相続した際、家禄はわずか600石だった。だが、そこからの出世がすごかった。延享4年(1747)、御側御用取次見習になると、翌年には家禄が2000石に増えた。宝暦元年(1751)に「見習」がとれて御側御用取次になると、4年後には5000石に。

こうして将軍の最側近として政治力を発揮し、宝暦8年(1758)にはついに遠江(静岡県西部)相良藩1万石の大名になった。明和6年(1769)に老中格、明和9年(1772)には正真正銘の老中となり、石高も天明5年(1785)に5万7000石にまで増加した。

だが、天明4年(1784)、嫡男で若年寄だった田沼意友が江戸城内で暗殺されたのを機に次第に権勢を失い、天明6年(1786)に意次を重用した10代将軍家治が死去すると、老中職を解かれて2万石を召し上げられ、翌年には残りの3万5000石も召し上げとなって蟄居を命ぜられ、その翌年、無念の死を遂げている。