「田沼=悪政」は本当か

意次の改革は結果的に頓挫してしまうが、それは内容が悪かったからではない。天明2年(1782)から同8年(1788)にかけて、江戸時代でももっとも酷かったとされる天明の飢饉が発生するまでは、改革はむしろうまく進んでいた。

江戸幕府の財政は、当初こそ余裕があったものの、江戸の7割程度が焼失した明暦3年(1657)の大火後、江戸城と市街の復興に莫大な費用を要すると底をついた。その後も直轄する鉱山からの採掘量は減り、金銀は長崎貿易で流出し、そもそも次第に貨幣経済が浸透するなかで財政支出が増え、恒常的な財政難に陥った。

そこで8代将軍吉宗は、新田開発を奨励し、年貢率を引き上げ、大名から米を徴収する上米の制を定め、倹約令を発するなどして財政再建に努め(享保の改革)、一時的には年貢の徴収高もかなり増えて、幕府の財政は立ち直った。

だが、当時の技術では新田開発できる土地もかぎられ、収穫量はすぐに頭打ちになり、一方、幕府の支出は年々増えるので、ふたたび財政難に陥った。それに、年貢率の引き上げは一揆も誘発した。そうした状況から判断して、ただ年貢収入を増やすだけでなく、むしろ民間の商人の経済力を活用し、すなわち、今日のように「民活」で財政を立て直そうと考えたのが意次だったのである。

【図表】江戸時代の主な改革
図表=プレジデントオンライン編集部作成

合理的な経済政策

意次はあらたな税収として、商人から営業税としての運上金や冥加金みょうがきんを徴収した。もっとも、たんに課税するだけでは反発を買うので、「ムチ」を強いる代わりに「アメ」を用意した。同業者組合である株仲間を公認し、営業を独占することを許可して、代わりに税金を納めさせたのだ。

また、金銀がこれ以上、海外に流出することを防ぐために、それまで輸入していた砂糖や朝鮮人参などの国産化を図った。一方、金銀に代わって銅のほか、なまこやあわび、ふかひれなど主として蝦夷地で採れる産物(中華料理の高級食材)を乾燥させ、俵に詰めた「俵物」などの輸出によって、外貨を獲得することが奨励された。

ロシアとの交易も検討され、そのために蝦夷地の調査も行われた。といって、新田開発をあきらめたわけではなく、下総(千葉県北部と茨城県南西部)の印旛沼と手賀沼の干拓事業がすすめられた。

千葉県の4市にまたがる手賀沼。我孫子市の手賀沼遊歩道からの眺め
千葉県の4市にまたがる手賀沼。我孫子市の手賀沼遊歩道からの眺め(写真=執行者/PD-self/Wikimedia Commons

意次は貨幣自体の改革にも取り組んだ。江戸時代の貨幣は金貨、銀貨、銅貨から成り立っていたが、金貨と銅貨は一定の額が表示されたのに対し、銀貨だけは重さで金額を決められた。しかも、江戸では主に金貨で取引されるのに対し、大坂では銀貨が使われた。そのうえ為替レートが頻繁に変わるので、両替もなかなかできない。

そこで意次は、8枚で小判1枚と交換できる銀貨「南鐐二朱銀」を発行し、商売の円滑化を図った。