敬語はケースバイケースでいい

ファッションと同じく、多くの日本人がルールや「人からどう見られるか」にがんじがらめになっていて、自分で意思決定する力を失いかけているんじゃないかなと感じます。

例えば、飲み会で「上座」とかありますよね。偉い人が上座に座って、そうでない人は下座に座る、みたいな。

文化を重んじることはとても素敵なことだし、相手をわかりやすく敬うためにあるルールは尊重したいです。事実、私も尊敬している先輩に「タメ語でいいよ!」と言われても、敬う気持ちを表すために敬語に徹するときがあります。

私はYouTubeに「言葉遣いを直しな」ってコメントを書かれたことがあります。

「普段からそういうしゃべり方をしていると、ちゃんとした場面でうまくしゃべれないし、敬語がしゃべれないと信頼を得られないよ」というコメントでした。私の敬語は完璧じゃなくて、ところどころ怪しいことは自分でも分かっています。ですが、事実として、私の話し方が理由で誰かの信頼を損ねたことは過去に一度たりともありません。

人の本質とは、敬語で表せるものなのでしょうか?

日本語に根付いているものですし、敬語が嫌いだと言っているわけではありません。

先述の通り、誰かを敬うために作られたこのシステムは日本の侘び寂びが反映された、美しい言葉だと思います。

ですが、それが人間性を判断する指針になることはきっとありません。

日本社会に根付く「見えない縛り」

人間性が宿るのは会話の内容であって、決して敬語だけではないはずです。敬語をそれはもうとても綺麗に使いこなしていても話が劇的に面白くない人の話には大半の人は興味を持てないでしょう。一方、面白いエピソードを持っているなら、どんなに敬語が汚くてもその人の話を聞いてみたくなると思うのです。

年を重ねてその広い視野と知識で導いてくれる先輩もいれば、ただイタズラに年だけを重ねた阿呆だっているわけで。

敬意を表するのは、相手と対峙して「年が上だから敬う」のではなく、「尊敬できるから敬いたい」と判断した結果のはずです。

ですが、年上だからと無条件で敬うルールは、「どうせ年を重ねれば敬われる」と思って素敵になる努力を放棄する者や、目上の人を尊敬できない自分のことを「ルールから外れているのではないか」と疑ってしまう若者だって生んでしまうと思っています。

握手を交わすアジアの実業家
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです

年上を敬うというルール以外にも、この見えない縛りの厄介さは尽きません。「3回デートしたら告白する、しないと脈なし」という謎の暗黙の了解から、コロナ禍後に世間を騒がせた「マスク警察」やら、幅広いです。

私は皆さんに、「自分の納得できないルールは気にする必要ないよ」って言いたいです。

多分あなたが思っているより、周りの人は意味のないルールや建前を気にしていないし、気にするフリが上手い人が世の中多いんだよ、って。

今後の発信で、形に縛られている人が、ちょっとでも楽に生きられるようなことを伝えていけたら嬉しいな、と思います。