内閣官房長官 菅 義偉(すが・よしひで)
1948年、秋田県生まれ。高校卒業後、働きながら法政大学を卒業。議員秘書、横浜市議を経て、96年の衆議院選挙で初当選。2006年、第一次安倍内閣で総務大臣。昨年、第二次安倍内閣発足に伴い現職。
2世、3世議員が目につく今の永田町で、叩き上げの風貌は異質の存在だ。秋田県から集団就職で上京し、働きながら大学を卒業。議員秘書を11年務め、横浜市議を経て96年に衆議院当選。最大派閥橋本派に所属した。
権謀術数のイメージが強いが、敗北と流転の連続だった。98年の総裁選では派閥トップの小渕氏ではなく梶山元官房長官を担いで敗北。小渕派を出て加藤派へ移籍。2000年、森内閣不信任案を巡る「加藤の乱」では加藤元幹事長に同調し失敗。加藤氏から離れて堀内派、その後の古賀派に移籍した。「脱派閥」と「世代交代」がスローガンなので組織では異端児扱いだった。
叩き上げならではの反骨精神とも言えるが、あえて多数派に挑戦することで強さを演出し、参謀として起用してくれるリーダーを探していたようだ。
「信用のおけない渡り鳥」と批判されながらも一目おかれる存在へ。06年の総裁選でも実力者古賀元幹事長に逆らって安倍氏の支持に動いた。
やっと勝利の女神をつかんで総務相、官房長官と駆け上がった。アルジェリア人質事件では、危機管理の司令塔として活躍し、頻繁に記者会見を行って存在感をアピールした。敗北の連続で修羅場に強い胆力を鍛えたようだ。
禍根の芽を摘むのも早い。スキャンダルを抱えていた徳田政務官をすぐに辞任させた。前の安倍政権で閣僚の不祥事をかばいすぎて支持率を下げたことを教訓にした素早い対応だ。また党税調で浮上した道路特定財源復活の動きもすぐに止めた。無駄な道路建設への批判が根強いことを察してのことだ。
功を奏して内閣支持率も上々だ。安倍総理と口をそろえて「言葉より結果」と強気である。しかし、まだ始まったばかりだ。結果責任という言葉は自らにも向けられているのでご用心。