※本稿は、浜本隆志『拷問と処刑の西洋史』(講談社学術文庫)の一部を再編集したものです。
処刑人と同席するだけで、街から追放されてしまう
死刑執行は古代のゲルマン時代においては、神の役割を代行する名誉な行為であり、処刑用の剣は、神の正義のシンボルであった。また処刑された罪人は神に対する供犠ともみなされていた。
しかしその後、中世初期まで職業的な処刑人は存在しておらず、被害者やその親族が刑を執行したり、あるいはその代行をしたりする役人(Fronbote)しかいなかった。中世ドイツでは、1276年にアウクスブルク都市法にはじめて処刑人が登場し、職業として拷問と処刑を行っている。
その後、14~15世紀ごろに、ケルン、マインツ、リガなど各都市に職業としての処刑人が生まれ、処刑以外にも自殺人、動物の死体、汚物の処理、娼婦の監督を任されていた。かれらの仕事は死や不浄なものに接触するものだったので、しだいに「不名誉な職種」に変化していった。
人を殺める職業柄、処刑人自身も罪の意識を自覚し、なかには職を辞して贖罪の巡礼をした記録が散見できる。たとえば15世紀のなかばに、ウルム出身のハンス・マウアーという処刑人は、神の思し召しによって罪深い仕事から足を洗い、ローマへの贖罪の巡礼にいく決心を述べている。
中世後期からかれらは、比較的高収入を得たが、社会の最下層の者として差別される傾向がますます強くなった。W・ダンケルトは『不名誉な人びと』のなかで、具体的な中世の差別の例を挙げ、日常生活のなかで処刑人は市民と出会うと、通りで道を空けなければならない、市場で食べ物に手を触れてはならない、教会すら特別の席に座らねばならない、市外の橋のそばに住まなければならない、というかれらの置かれた立場を分析している。
事実、バーゼルの職人は、1546年に刑吏と同席して飲んだというだけでツンフトから追放された。