「文字」とは「文」と「字」のこと

いずれにしても本字を誤ったのが誤字とされるのだが、驚くべきことに本字もまた異体字のひとつなのだ。「漢字の成り立ちからいって正字形とすべきもの」(前出『角川 大字源』)である「本字」が異体字ということは、どの親字も正しくないわけで、そうなるとドミノ倒しのようにすべてが誤字に思えてくる。崩れたにせよ、ヘンやツクリが動いたにせよ誤字。日本では戸籍係の書き癖や写し間違いから数多くの誤字が生まれたそうだが、たとえ正しい形でもすべては誤った字。異体字のひとつとしての「誤字」ではなく、広い意味で文字はすべて誤字ではないだろうか。

もしや「文字」という文字も誤字かもしれない。

あらためて調べてみると、「文字」とは「文」と「字」のことだった。『学研 漢和大字典』(学習研究社 昭和53年 以下同)によると、「文」とは「紋様のもん」と同系の言葉で、「物の形を模様ふうに描いた絵もじ」のこと。単体で何かを表わしているもので「水」「牛」「犬」「門」などが「文」なのだ。一方の「字」とは、「」(ふえるの意)と同系で「既成の絵もじを組み合わせて、ふやしていった後出のもじ」を指すらしい。「文」を組み合わせて「汁」「物」「嗅」「間」などという「字」をつくる。つまり「水」は「字」ではない。「水という字を書いた」などと使うと、それこそ誤字になるのだ。

正岡子規が亡くなる前年に記していたこと

なんにも知らなかった。

私は呆然とした。全部忘れていた、というべきだろうか。

文筆を生業なりわいとしながら、あまりの無知に呆然としたのだが、念のために「呆然」を調べてみると、「呆然」は漢語ではなく日本固有の熟語だった。「あっけにとられるさま」(前出『角川 大字源』)を意味するそうで、何やら漢字世界に対する私の心境にしっくりとくる。

呆然として漢字を見つめる。かの正岡子規も亡くなる前年に病床でこう記していた。

正岡子規(1867-1902)
正岡子規(1867-1902)(写真=『明治文学研究 2 正岡子規』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

余は漢字を知る者にあらず。知らざるが故に今更に誤字に気のつきしほどの事なれば余の言ふ所必ず誤あらんとあやぶみし

(正岡子規著『墨汁一滴』岩波文庫 1984年 以下同)