「真善美」をめざして生きる
いまの時代、見た目コンプレックスの悩みは大きいと書きましたが、中高生は、小学生のころよりも、「自分が人からどう見られているか」ということが気になってくる年代です。そのことばかり考えてしまう人も少なくありません。
「自分はそういう“人の目を気にしたりする世界”とは違う世界で生きる」と思えればいいのですが、中高生でそう思える人はなかなかいないかもしれません。
ぼくが中学を卒業したとき、卒業生全員が学校から記念の盾をもらいました。
そこに書かれていたのが、
「真善美」
という三文字です。
「真」とは、「真実」――正しいことを知り、正しいことを行なうことです。
「善」とは、社会でなすべき「善い行ない」を意味します。
「美」とは、本質的な美しさを感じとる「豊かな心」を持つことです。
これらは三つまとめて、人間の理想的な価値の基準を指すもの。いいかえれば、「人が本来、求めてやまない価値」――それが真善美だということです。
古今東西の哲学者たちも真善美を哲学の大本とし、最高の価値として追求しました。そこに情熱を注いで生きることが、人生を豊かに生きるということでもあるのです。
ぼくが通った中学は、「真善美を求めて生きていきなさい」というメッセージを、卒業生に贈る盾にこめたのでしょう。
京セラ稲盛和夫が語った「自分をよく見せる」を取り去る方法
京セラの創業者である稲盛和夫(1932~2022年)さんも、著書『生き方』(サンマーク出版)のなかでこういっています。
人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですが、
それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、
すばらしい真我があるからにほかなりません。
あらかじめ心の中に備えられているものであるから、
私たちはそれを求めてやまないのです。
稲盛さんは得度を受け、仏門に入った人物です。
「私たち人間は本来、一点の曇りもない美しい心を備えている」という仏教の教えを、このように表現されたのでしょう。
その「美しい心」を具体的に表現したのが「真善美」。それを求めて生きると、「自分をよく見せる」という発想がなくなります。
うわべを飾ったりすることに価値がないと思えるからです。
当然、コンプレックスとも正しくつき合えるようになります。
「ここが劣っている、あそこが劣っている」と落ちこんでいるヒマがあったら「自分を磨こう」という気持ちになるのです。
「真善美」を求めて生きるうえで、ぜひきみたちに読んでほしい一冊があります。
宮沢賢治の『インドラの網』(角川文庫)という短編集に収められている未完の短編です。
おすすめ図書 『学者アラムハラドの見た着物』
あるとき、学者のアラムハラドが子どもたちに「火がどうしても熱いように、小鳥が啼かずにいられないように、人が何としてもそうしないでいられないことはいったいどういうことだろう?」と問いかけた。
そのなかで賢治は、小さなセララバアドにこういわせている。
「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います」
短いけれども密度の濃い作品です。「本当のいいことって何だろう?」と考えながら生きることが、「真善美」を求める生き方に通じる。ぼくはそう思います。