告発者は「わきまえない人間」となる

この垂直的な構造と権力の偏重がパワハラを生み出す温床となっていることは、容易に推測がつくことだろう。人間が階層化され、しかも「上の人」に価値が集中する社会では、上の人が「下の人」に対して横暴に振る舞うことが容認され、下の人はその横暴に隷従するのを当然だと考える。なぜなら、上の人の方が「えらい」からだ。

まれに横暴に耐えきれずに内部告発に踏み切る人が現れても、告発者は身柄を保護されるどころか、むしろ「わきまえない人間」として組織内で孤立するか、組織から排除されてしまう。わが国でパワハラの内部告発者が退職や自死に追いやられるケースが多い理由は、そこにあるだろう。

【水林】別の言い方をすれば、日本の組織(企業、政党、学校等々)は、いまだに親分・子分の原理によって貫かれている、ヤクザ的な世界だということです。

自民党という組織を見れば一目瞭然ですが、森喜朗、麻生太郎、二階俊博といった老齢の、しばしば世襲的に継受される「親分」が隠然たる権力を持っていて、「子分」である若手議員は親分に隷属することによってしか生きる道を見いだせない。親分の言うことイコール自分の考えであって、そこから抜け出すことはできないのです。「派閥解消」などといっても「派閥的なもの」は決してなくならない。組織の構造そのものだからです。

「わきまえ」なくてはならないのは女性だけではない

【水林】かつてぼくが所属していた学会にも親分らしき「えらい先生」がいたものですが(笑)、まだ若かった頃、自分の思うところを堂々と述べてしまったものですから、そういう親分的な先生の一人の怒りを買ってしまったことがありました。いみじくも親分のひとりである森喜朗の言葉ですが、オマエは自分を「わきまえて」いないということだったのでしょう。

江戸時代の儒者である石田梅岩の石門心学では、人間にはそれぞれ与えられた「分限」があり、各人が分限をわきまえ、分限をはみ出さないことが社会の秩序を安定させると考えるわけですが(p.66)、要するに生まれ落ちた境遇に満足せよということですね。農民は農民であることに満足せよ、商人は商人であることに満足せよ、社会、組織の中の地位をわきまえてそれに甘んじて生きよということです。

以前、「週刊金曜日」が「『わきまえない女』でいこう」というタイトルを打っていましたが(2021年3月19日発売1321号)、日本社会で「わきまえ」なくてはならないのは、決して女性だけではないのです。

こうした、親分による抑圧から自由になるためには、親分と縁を切って離れてしまえばいいのかといえば、事はそう単純ではないようだ。なぜなら、わが国では組織のトップだけが「えらい」わけではないからだ。「えらい」人は、予期せぬ形でわれわれの前に立ち現れてくる。