「えらい人に聞かないとわかりません」という表現

水林さんは、有意な抵抗が起こらない原因のひとつに、日本社会に内在している構造的な特徴を挙げる。これは、パワハラやカスハラが多発する原因でもあるという。

【水林】日本社会の構造的な特徴は、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従するという垂直的な構造です。ぼくは歴史の専門家ではありませんが、その直接の起源は徳川幕藩体制によって作られた天皇→将軍→大名→家臣→領民という体制、すなわち法度体制(権力者が被支配者に対して「ああしろ、こうしろ」という命令を差し向ける法体制)にあると考えています。法度体制は、8世紀に中華帝国から移入した律令体制が原型になっているわけですが、人間の階層化の根幹にあったのは天皇制です。

こうした、天皇を頂点とする日本社会の秩序の特徴は、上位者に「価値」が集中することです。それを日常の言葉で表現すれば、「えらい」ということになる。われわれは「えらい人に聞かないとわかりません」とか「えらい先生がおっしゃっているので」などという表現を頻繁に使いますが、福沢諭吉はこうした上位者に価値が集中する現象にいち早く気づいていて、それを「権力の偏重」と名づけました(『日本語に生まれること、フランス語を生きること』p.230-239。以下、ページ数の表記はすべて同書のもの)。

いわゆる「内部告発」がしにくい日本

たとえば官僚制(官庁ばかりでなく企業をも貫く合理化された「組織」という広い意味での官僚制)を例にとってみると、本来、上下の区別は単に作業の役割分担なのであって、上位者であることは人間としての価値とは何の関係もないはずです。ところが日本では、福沢が指摘したように、上位者に価値が集中して「えらい人」になってしまう。『文明論の概略』を読み抜いた丸山眞男が説明してくれているとおりです。

「えらい人に聞かないとわかりません」といった表現は頻繁に使われているという。
撮影=今村拓馬
「えらい人に聞かないとわかりません」といった表現は頻繁に使われている。

このことを「個人」と「集団・組織」との関係という観点から見ると、この国では帰属集団に超越する価値が決して支配的にならないという点が重要です。上位者が体現する集団の価値が絶対化してしまうのです。ですから、たとえば、「知事」の理不尽な行動について疑問を抱いた下位者が、「県庁」という集団・組織を超越する価値(たとえば「良心」)に依拠して糾弾するという、いわゆる内部告発がしにくいのです。

集団の価値が絶対化し、それが自明の、問われることのない価値であれば、告発者は裏切り者と見なされ徹底的に弾圧されます。いわゆる「村八分」の構造ですね。この国の最終的な帰属集団は「日本」ですから、最後には「おまれはそれでも日本人か」という殺し文句が出てくる。ここにはこの国のあり方と西欧世界のそれとの根本的な相違があると思います。

西欧にも絶対君主といわれるような「国王」がいましたし、今でも国王を抱えている国がありますが、西欧では絶対君主といわれる場合でさえ、国王は絶対ではないのです。あらゆる地上的存在を超越する神=普遍者がいるからです。ですから、そのような超越的普遍者を拠り所に抵抗を試みる可能性がいつも存在しました。しかしこの国には、唯一鎌倉仏教の時代を除いて、そのような普遍者意識が存在しなかったようです。もしもこの国に普遍者意識があり、そこに重きをおく文化があれば、「内部告発」を重視し、告発者を擁護するはずなのです。以上は、ぼくが加藤周一、丸山眞男に学んだことの一端です。