真に問われるべきは、面接官の教授たちの人間性
欧米の名門大学でも、入試面接は行われています。しかし、日本と異なるのは、原則として教授は面接にタッチしないところです。教授が面接を行うと、自分に忖度するような人間を選んでしまいがちなので、大学事務局に専門の面接官を置いています。
つまり、教授だからといって無条件に信用し、すべてを任せるようなことはしないのです。一方で、反抗的な学生であっても、優秀な人材であれば躊躇なく合格させます。
これに対して日本では、教授の意向を絶対視する傾向があり、教授は大学の中で強い権限をもっています。入試面接はもとより、教授を選ぶのも教授の集まりである「教授会」です。
しかも、教授に一度なったら、よほどの不祥事を起こさない限り、定年までその地位が保障されます。
だから通常、医局には教授のイエスマンしかいません。
日本では、医学部を卒業して医師国家試験に合格すると、基本的に出身大学の医局へ研修医として入ります。
その後、「助教→講師→准教授」というプロセスを経て、教授選に勝つと教授に選ばれます。そうしたヒエラルキーの途中で医局の教授に嫌われたら、もはや出世の道は途絶えます。
欧米の一流大学であれば、学生に人気があったり、研究費を集められたり、画期的な研究を行っていたりする人がいると、「ディーン」と呼ばれる教授のスカウトのような役職の人が目をつけてヘッドハンティングします。
絶えず外部から優秀な人材を入れることで、学内を活性化し、進歩させていこうと考えているのです。
心の問題がわかる医者を育てるべき
日本の大学のように、閉鎖的な“教授ムラ”ですべてが決定されるような環境では、医療崩壊が起こっても致し方ない気がします。精神科の教授が、ずっと薬物療法中心の医者で占められているのは、その象徴といえるでしょう。
問われるべきは、19歳、20歳の若い受験生の「人間性」ではなく、その判定を行っている面接官の教授たちの人間性でしょう。
大学は教育機関なのだから、その入り口で「人間性」をあいまいな基準で判定するより、入学後の6年間で人間性を鍛えて、心の問題がわかる医者を育てるべきだと、私は思っています。患者さんに対するコミュニケーションの取り方なども、医学部に入ってから教育すればよいのです。
そして、どうしても面接をやりたいなら、入試のときではなく、国家試験のときに行えばいいと私は常々提案しています。医学部に入るのは、臨床医だけでなく、研究者もいていいからです。
そうすれば、国家試験の合格率を上げるために、大学側は医学部の授業で心の診療、すなわち精神療法的な教育を取り入れざるを得なくなります。
これは大学にとっても、医学生にとっても、患者さんにとっても、必ずや良い結果をもたらすでしょう。精神医療崩壊を食い止めるきっかけにもなります。