研究所を国立にする計画に、福沢は「政府と役所は信じるな」
その説明を受けた福沢は「北里が所長ならば、それでもいいよ」と快諾して、土地建物をさらりと寄付した。その上で、こうつけ加えた。
「ひとつ忠告しておく。政府と役所は信じるな。連中に寝首を搔かれないよう注意し、いつでも卓袱台返しに対応できるよう、常日頃から財を蓄えておくことだ。俺が好き勝手をやってこられたのも、政府や役人を当てにしなかったからだよ」
忠告は福沢自身の苦い経験に拠ったものだ。明治10年、西南戦争後に慶応義塾は経営難に陥り、福沢は政府に支援を打診した。彼は教育を通じ国に貢献していると自負していたが、役人はそんなことは全く斟酌しなかった。
この時は卒業生の寄付で急場を凌げたが、福沢は国家の真の姿を見たのだった。
そして「明治14年の政変」で大隈重信が放逐された時は、大隈と協調し役所に送り込んだ精鋭が尽く排除されてしまった。
これで福沢の役人嫌いは決定的になった。この時、福沢を懐柔しようとして、井上馨が福沢に官報の刊行を持ちかけたが、福沢は断固拒否して1年後の明治15年、満を持して天下の公報たらんとする「時事新報」を創刊したのだった。
北里を絶賛したドイツ皇帝の言葉を聞いた天皇が勲章を与える
明治25年12月3日、「大日本私立衛生会・伝染病研究所」が開所した。
所長の北里は内務省内務技師として伝研内で研究することを許された。兼職である。
それは福沢が「ちっぽけな研究所」の種を蒔いたおかげだった。思えば北里がドイツから帰国した半年前、研究成果以外は徒手空拳に等しい状態だった。それがあっという間の急転回は、北里がドイツ留学を決めた6年前を彷彿とさせた。
北里の周りには時の流れを速める特殊な磁場があるようだった。
そんな北里に更なる追い風が吹く。
12月、陸奥宗光外相は、日本に着任した新任のドイツ公使から皇帝ヴィルヘルム二世が北里を絶賛した言葉を聞いて、それを天皇に伝えた。もちろんそれはコッホの気遣いだった。その影響か29日、政府は北里に勲三等瑞宝章を授与した。
そんな世俗的な栄誉に加えて、北里を心底勇気づけてくれる援軍も現れた。
ベルリンで再会した同郷、同窓の石神亨(海軍軍医)が、伝研へ移籍してきたのを皮切りに、北里の強烈な磁場に引き寄せられるように、綺羅星の如き俊英が集まってくる。