福沢は「これは俺の道楽さ」と北里に研究所をプレゼント
歯切れのよい福沢の啖呵を聞き、北里が「福沢先生のご厚誼に答えるべく一意専心、伝染病研究所の設立に邁進するとです」と応じると、福沢はからりと笑った。
「恩返しの必要はない。これは俺の道楽さ。お前さんの仕事で万民を幸せにしてくれれば、それでいいんだよ」
北里が早速、実験器具や設備を整える費用をねだると、同じ酔狂者の森村市左衛門が、施設建設費1000円を寄付してくれるという。福沢は、長与前局長の顔を見て言う。
「文久2年、幕府の遣欧使節団に潜り込み、ベルリンで病院や大学を見た後、長与は繰り返し日本をベルリンみたいな衛生大国にしたいと言い続けた。だからそれは俺の夢になった。小さな研究所を建てたらその先にでっかな計画もあるから楽しみにしてな」
啓蒙思想家、慶応義塾という教育機関を主宰する教育者の顔を併せ持つ福沢の提案を受け北里は10月、大阪私立衛生会の依頼で赤痢の調査をした。
この時に、帝大の緒方正規は短桿菌が原因菌としたが、北里はその細菌説を一笑に付し、アメーバ病原説を提唱した。ところが緒方も北里も間違えていて、赤痢菌の発見は北里四天王の志賀潔の登場まで待たねばならなかった。
こういう態度が無用の敵を作り、北里はあちこちで排除されてしまうのだった。
芝公園にある福沢の私有地に建てられた小さな研究所
明治25年11月19日、芝区芝公園5号3番地、御成門交差点の南東角の福沢の所有地に、建坪10余坪、2階建て6室の小さな研究所が完成した。
伝染病研究所の開所式の案内状は大日本私立衛生会が作成した。
内務省からツベルクリン療法実施の許可を得、午前8時から9時まで結核患者の診療にあたることになった。
開所式の招待状を福沢邸に持参すると、福沢はわがことのように喜んだ。
だが、その2日前の11月17日、衛生局局長に就任した後藤新平は、やはり個人の寄付という形は長続きしないと考え、ゆくゆく内務省の下に国立伝研を設置する構想を描き、その前段階として大日本私立衛生会に伝染病研究所設立案を起案させていた。
「大日本私立衛生会・伝染病研究所」の創設メンバーは長与、石黒忠悳、高木兼寛、金杉英五郎などの北里シンパで固め、委員長は「ドクトル・ベランメエ」こと長谷川泰を任命した。長谷川委員長は伝研経営のため大日本私立衛生会から3600円の支出を決したが、そのためには現在の建屋も土地も全て「大日本私立衛生会」の所有にしなくてはならない。