北里は伝染病研究所の設立を訴える
そこで長与は伝染病研究所の創設を中央衛生会に打診した。その話はツベルクリンの凋落で凍結されていたが、北里の帰国で再始動する。6月1日、中央衛生会にて長谷川泰委員長、高木兼寛、石黒忠悳の賛同を得て伝染病研究所設立が建議された。
6月22日、北里は「大日本私立衛生会」(仙台)の例会で「伝染病研究所設立の必要」を訴え7月、内務省の中央衛生会の委員に任じられた。ツベルクリン治療専門研究所の設立は内務省から切り離し、宮内庁の援助で資本家の寄付を募ろうと考えた。
伝研と治療病院の連携は、コッホ研究所と同じ構図である。
7月1日、中浜東一郎が衛生試験所所長を辞職した。長与局長に衛生局に招聘されたが、ドイツ留学では北里の割を食い、衛生局局長の座も後藤に奪われる屈辱に耐えられなかったのだ。
中浜は「ツベルクリンは結核治療に有効ではなく、本邦の使用施設も激減し、指で数える程度になった」という調査結果を置き土産にした。
その後も彼は、衛生学者として、冷静で中立的な、優れたコメントを発し続けた。
明治25年に出会った福沢諭吉が北里の救世主になった
伝染病研究所を創設する話が中央衛生会で動き始めたこの時、文部省が、細菌学の研究機関を帝大に置く設立予算を計上した。またも文部省、ここで東大の横槍とは、と北里の苛立ちは激しくなった。
ところがここで、北里にとって思いもかけない救世主が登場した。
7月末、長与元衛生局長は北里と帰国直後の後藤新平を適塾の盟友、福沢諭吉を引き合わせた。何と福沢は、自前の研究所を寄付するという。
同席していた後藤新平が「大日本私立衛生会が建設を検討しているので、いずれ国立でやるべきです」と言うと、福沢は答えた。
「それだと早くても2年後になる。その間、この高名な大学者先生を遊ばせておくつもりかい? それでは宝の持ち腐れ、世界に恥を晒すぜ。政府頼みの昨今の風潮は、実に嘆かわしい。空威張りの役人なんぞ当てにせず民から自発的に実体を作り上げ、それを梃子に大きくしていけばいいんだよ。金なんてもんは旗をおっ立てれば、後から集められる。区々たる俗論に拘泥して、国家の大面目を損じてはならねえよ。聞けば文部省の連中も議会に働きかけを始めたという。ぐずぐずしていたらこの企画を持って行かれちまうぜ」