「富めるものは、貧しいものに施す」

次の経験は、遠い異国の地でした。66年、入社5年目、紙・パルプ営業だった私は、イラン駐在を命じられ、5年間暮らすことになります。

革命前のパーレビ王朝時代のイランで出会った大手菓子メーカーのアリ・ホスローシャヒ社長は、現地で特に尊敬を集める経営者で、私は日本企業との取引の橋渡し役をする商社の担当者として接点がありました。

ある日、社長の工場を訪れると、体にハンディキャップのある方々がたくさん働いていることに気づきました。当時、日本でそのような光景は見ることがなく、非常に驚きました。

社長に尋ねると、「彼らはなかなか働き口がない。すると生活も貧しくなり、親の負担も大きくなる。ハンディキャップがあってもできる作業には優先的に採用している」と。

「富めるものは、貧しいものに施す」というイスラムの教えがあるものの、これはある意味で非常にスケールが大きく社会的な気配りで、酒席で相手の盃が空になると一杯つぐといった気配りとは別次元のものです。

そう考えると、「誠意」という裏付けのない形だけの気配りでは意味がない。本当の気配りとは、本質的な善良さがにじみ出て、誠意という裏付けがあって、初めて生きてくるのではないでしょうか。

こんな経験もしました。80年代後半、私が営業を担当していたある大手製紙メーカーの話です。

同社のオーナー会長には、大変かわいがってもらいました。輸出も手がけていたため、オーナーが海外へ行くたびに「辻君、ちょっと一緒に来いよ」と声がかかり、お伴していたのです。あるとき、オーナーからスイスに行くお誘いを受けましたが、どうしても外せない用事があり、2、3日遅れて現地に向かうことになりました。

遅れて行くからには、何とか点数を稼いで挽回する必要があると考え、秘書の女性に「会長の好きな食べ物で、外国に持っていけるあまり高くないものはないか」と聞いたところ「いいものがありますよ」と教えてくれたのが、木村屋のアンパンでした。さっそく買い込んで、スイスに向かいました。